佐野元春論・大乗ロックンロールの言葉と自由 「1」約束のリリック

Ⅰ 約束のリリック
  ――新奇の生命(八十年代初期)
 佐野元春の約四十年に渡る活動。その絶え間ない自己変革ぶり。なぜ、彼は、変容し続けるのか。――そのキャリアの初期に行われたインタビューで、次のように語っている。「七三年ごろからディスコ・ミュージックは嫌いだったんだ。踊るにはいいけれど、自分が強くインスパイアされるような、たとえばディランをきいたときのような魂が高く舞いあがるといった経験は、どうしてもディスコ・ミュージックからは得られなかった。」(下村/1993。 p62)
「魂が高く舞いあがるような経験」とは、なんとナイーブな言い回しだろう。人によっては鼻白むかもしれないこの純粋さ。九十年代初頭に宮台真司は、日本ロックのポートフォリオの中で佐野を他のアーティストと共に「スタミナ・ソング」の提供者という位置に収めている(宮台・石原・大塚/2007年)。「スタミナ・ソング」とは、リスナーの自意識の疲労を慰撫し、鼓舞するために聴かれる歌を称して言われている。だが、そこに名が挙げられているアーティストたちの多くは、すでに長く、そのキャリアに新たなピークを付け加えていない。そこには、アーティストたちが直面した九十年代の壁がある。それを東浩紀の言い方に倣って「動物化の壁」と呼ぶことも可能だろう。    
 しかし、現在の佐野は、未だに新たな高みへとのぼり続けている。「ダンス!」という言葉を誰よりも多く歌って来た佐野は、「『ダンス!』するためのミュージック」という自己規定を逸脱し続けているのだ。それは、彼の敬愛するボブ・ディランが示す、多くのファンに支えられるポップ・アーティストとしては異例の淫らさとしか言いようのない、リスナーの期待への絶え間ない裏切りにつぐ裏切りでもある。
 ディランだけではない。ルー・リードニール・ヤングトム・ウェイツ。さらには、ブルース・スプリングスティーンエルヴィス・コステロポール・ウェラー。佐野が敬愛や親近感を表明し続けているアーティストたちを並べてみれば、彼の感性は明らかだろう。彼らはみな、商業的に安定したセールスを得ることに価値を置くのではなく、創作活動を絶え間ない自己変革とする点で共通性を持っている(Reed/2014。 Downing/1994。 Humphries/1989。 Rosen/1995。 Clayton-Lea/1998。 Reed/1996。 など)。どうやら彼が言う「魂が舞いあがる」ような体験を生み出すのは、そのような自己破壊と新たな創造の繰り返しによるようだ。
 日本の芸術、芸能の世界で、彼と同程度にセルフ・イメージの固着を拒否した人物は、数少ない。特に、彼が強い関心を向ける「詩歌」に関しては、ほとんど思い当たらない。そこには、読者との間に不可測な共同進化(コーイヴォリューション)が失われている。対して、多数の評論家や若いアーティストたちが言うように、佐野が切り拓いたのは、新しい日本語の姿であった。それは日本語に関わる者の共同進化だった。彼によって、「聞いたことのない=歌ったことのない」日本語に、日本人は出会った。渋谷陽一が言うような「チープな商業主義」にそれが取り込まれながら普通の日本語として浸透していく過程こそ、この四十年間の日本語をめぐる最も重要な進化だった。その過程にあっても、当事者の佐野は、差異化と陳腐化のパラノイアックなチェイスを逃れて、そのはるか先を疾走してきた。佐野こそ、現代の詩歌人たちの隠遁を埋め合わせるべく、「言葉の力」を〈信じる―信じさせる〉存在であったのである。
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 なぜ佐野元春は、そうあり得たか。それは日本語のロックンロールという「SUBSTITUTE」へのしたたかな(にならざるを得ない)こだわりがもたらしたものだ。「とりあえずの間に合わせ品」という意味合いを持つこの語が、佐野がギターを持つきっかけになったピート・タウンジェント率いるTHE WHOのヒット曲のタイトルであることは言うまでもないだろう(日本語タイトルは、「恋のピンチヒッター」)。そこで歌われるのは、「代用品」という偽物こそ本物であるとする、ロックというジャンルのねじれた自意識だ。佐野は後に受けたインタビューの中で、彼が愛する多くの芸術、芸能に「素晴らしくだまされた」ことへの感謝を語っている(萩原/1992。 p88)。彼の思考の特徴は、「だまされること」を「本当の価値」へと繋げていることにある。この「だますもの=『代用品=偽物(サブスティチユート)』」への肯定を担保しつつこれを超越すべき活動が、彼の日本語ロックンロールなのである。だからこそ彼は、デビュー時から散々、スプリングスティーンビリー・ジョエルといった洋楽アーティストのパクリと言われ続けながらほとんど意に介さなかったのである。彼から見れば、この時代のロック・アーティストは皆、歴史的に誰かに似せつつ自己の音楽を作っていたはずだからだ。
 本物意識という自己愛に帰属し得る凡百のアーティストたちを、彼は現代性において凌駕したのだ。この四十年間、我々が生きたのは、「代用品=偽物(サブスティチユート)」意識の誠実さにおいてこそ、本物であり得るという時代だった。八十年代にデビューし『僕は模造人間』や『彼岸先生』を書いた島田雅彦と、不実さにおける誠実さという点において、佐野元春はまさしく同時代にあったのだ。
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 ロックと呼ばれる音楽の中でも、佐野元春は常にヴォーカルを中心に据えてきた。ハード・ロックヘヴィ・メタルなどのように、演奏が前面に出てリスナーの陶酔を誘うようなスタイルを取らない。時にインストゥルメンタルの曲が入ろうと、それはまさに次の「言葉」へのインタールード(幕間)として、熱狂を冷ます役目を負うだけだ。
 言葉が中心であることーー彼の音楽のぶれない基盤である。
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 佐野元春の初期の三つのアルバム(『Back to the Street』、『Heart Beat』、『SOMEDAY』)を三部作として捉える見方は、すでにスタンダードなものになっている。『SOMEDAY』のヒットによって知名度の上がった彼。大瀧詠一による『ナイアガラ・トライアングル VOL2』(1982年)に杉真理とともに参加したことや、地道に続けられたライブ・パフォーマンスによるオーディエンスの熱狂などが、一つの波となって彼を押し上げたのだと言われている。ところが、この翌年、この時点での彼の再編集版アルバム『No Damege』(1983年)がヒット・チャートの1位になる頃には、日本を離れてニューヨークで暮らしている。このニューヨーク滞在は約一年に渡った。この時こそ、彼の自己変革の第一ステージだったようだ。彼は『SOMEDAY』までで、とりあえず手持ちのコマを使い果たしてしまった(伊藤銀次の発言 下村/1993)。一般的に強調される初期衝動としての彼のロックンロールは、いったんここで終わってしまっていたのだ。
 この初期衝動は、舞台としての「夜」への偏愛と、一音符につき不規則な音数を当てはめる日本語のスタイルと、英語を中心としたシャウト。これら三つの分かりやすい特徴を持っている。しかもそれらはみな、一つの理念を示している。そしてやがて彼はこれらをも脱ぎ捨てる。――これが自己革新の始めなのだ。
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 初期三部作に収録された約三十曲のほとんどは、「夜」という時間を舞台にしている。一枚目の『Back to the Street』は、一曲目の「夜のスウィンガー」から始まってデビュー・シングルともなった「アンジェリーナ」、そして彼自身のジャズへの偏愛を表した名曲「ドゥ・ホワット・ユー・ライク(勝手にしなよ)」にいたるまで「夜」尽くし。二枚目の『Heart Beat』も「Hello City Lights」と歌う初期の代表曲「ガラスのジェネレーション」から街に暮らす若者のデートを歌う「Night Life」、ディラン式の詩的イメージの乱反射する「君をさがしてる(朝が来るまで)」、つかの間の恋の逃避行を歌う短編小説のような「ハートビート(小さなカサノバと街のナイチンゲールのバラッド)」まで、夜ばかりだ。「Sugar Time」と「Happy Man」という無時間で抽象的な世界観の二曲から始まる『SOMEDAY』では、前の二作に比べて量としての「夜」は減る。だが、タイトル・ナンバーの「SOMEDAY」や「真夜中に清めて」、さらには一枚のピークをなす大曲「Rock and Roll Night」の印象の強さから、むしろ質としての「夜」は強く、支配的となる。
 初期の佐野元春は、「夜」ばかりを歌う。――体系的に調べる方法はないが、「はっぴぃえんど」以降の日本のロッカーたちを出来る限り思い浮かべても、彼ほどの一元性を見せる存在は、ほかに思いあたらない。
 それは、日本のロックンロールの中だけの話ではない。彼が折に触れてその影響を語り続けているビート・ジェネレーションを中心としたアメリカの作家や詩人たちと比較しても際立つ。例えば、ビートの代表的な詩人であるゲーリー・スナイダーの詩の世界と比較してみよう。スナイダーの詩が、朝・昼・夜にこだわらない悠々とした時間帯を持つのに対し(高橋/2018)、佐野のロックンロールのリリックたちは、あくまでセカセカと夜の街の中で蠢いている。それは、ローレンス・ファーリンゲッティの過去分詞的な時間感覚(Ferlingetti/1995。 街中の川の流れをギャラリーに飾られた絵の中に眺めるような、とでも表現したらいいのだろうか)とも違い、無理矢理〈祝祭〉を演じようとする空回りのエネルギーが充満している。ビートの代表的存在であるアレン・ギンズバーグの初期の詩(『吠えるその他の詩篇』)やジャック・ケルアックの『路上』の普及させたイメージに近い。だが、若くして衰えたケルアックはともかくとして、長寿を全うしたギンズバーグの詩の中の「夜のアップル」や「夢見るタイムズ・スクエア」のような佳作を思うとき、あのゆったりとした「夜」のありようをこのころの佐野が全く無視していることに驚かざるを得ない。
 注目すべき差異は、ギンズバーグ「夜」を描いた佳作が夜の中ではほぼ盲目で触覚的な幻想を誘うのに対し、佐野の歌では、「シティー・ライツ」「街灯り」を見つめる存在として描かれることだ。「夜」の中の灯りをさがしてうろつく人々の姿、――それこそが、初期の佐野元春のリリックに映し出される存在だった。
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 では、そのような照明で照らされる世界は、いかなる日本語の形を持っているのか。
 佐野元春がもたらした日本語の異様さは、デビュー・シングルの「アンジェリーナ」に表れている。
  シャンデリアの街で眠れずに/トランジスタラジオでブガルー/今晩 一人 情熱だ  け吠えて/ジェームスディーン気取りの/ティーン・エイジ・ブルース
「シャン」と「デリアの」を一つの4分音符で歌い、「街で」を8分音符で細かく畳み込み、次の「トラン」「ジスタ」と「ラジオで」もほぼ同一のパターンとなる。この忙しく、錯綜しているようにも取れる符割は、はっぴいえんどが生み出したとされる四分音符一つ分につき日本語の一音を二つずつ振り当てる安定的パターン(川崎/2015。p210。また、川崎の分析は、佐藤/1999に依拠している)を、無視している。この不安定な佐野の符割は、日本語ではないようなスピーディーさを生んだ。前出の佐藤の分析に基づけば、四音がすばやく発音される言葉こそ、話し言葉としての日本語の基本ユニットということになる。ならば、1拍が四音で形成されている佐野の歌詞は、話し言葉に比せば、むしろ自然な速さに聞こえたかもしれない。彼からの影響を認めている吉川晃司や尾崎豊のような若いミュージシャンたちが感じたのは、彼らの日常生活と日本の歌曲との接点だったのだろうか。ただし、それはまだ歌としては新奇過ぎ、当時の日本のリスナーの耳にはほとんど聞き取れなかった。
「(子音+)母音」で構成される一音を、音符の数よりも少ないものにすること――日本語の歌の歌いやすさ、聞き取りやすさの基本は、そこにある。 
 歌詞の聞き取りやすさとメロディーの覚えやすさが最重要な曲作りが行われる歌謡曲の世界で、キャリアの長きに渡ってトップの人気を誇った沢田研二。彼が、デビュー間もない佐野に依頼した曲(「彼女はデリケート」「I'm in Blue」など)を歌った途端、沢田のリスナーにとっても聞きなれない日本語に覚醒させられる体験になった(萩原/2018 p54)。この当時(一九八十年代前半)の沢田と彼のスタッフが、八十年代に始まるロックと歌謡曲の融合に大きく先進的な役目を果たしたこと(聴きなれない日本語歌にリスナーの耳を慣らさせる役目をしたこと)は、スージー鈴木が指摘する通りであろう(鈴木/2017a。 p46)。
 加えて、前掲の「アンジェリーナ」冒頭部で注目すべきは、「ジェームスディーン気取りの/ティーン・エイジ・ブルース」の部分だ。「ティーン・エイジ・ブルース」というフレーズを聞き取れて、明確なイメージを結べる日本のリスナーが、この当時、何人いたのだろうか。ここには、日本の十代よりも、アメリカのティーン・エイジャーと親しくする感性がある。「ジェームス・ディーン」が選ばれるのも、この感性の磁場ゆえのことなのだ。さらに、サビ(Cメロ)に至って「今夜も愛を探して」と繰り返して叫ばれるが、日本の演歌や歌謡曲の感性ならば、「愛」をめぐる環境は、「(一人の)家の中」や「酒場」、「雪国」、「波止場」、「駅」、「海峡」、「連絡船」など、孤独がことさら身に染みるようなシチュエーションが選ばれるはずだ。ドラマティックな別れが演じられるような背景が、ここにはふさわしい。それも、多くは男女の「愛」を歌うために。ところが、「アンジェリーナ」で歌われる「愛」は、車が行きかう街角にあり、複数の次元を混乱させた不十分な抽象化に留まっている。ここでの次元の不統一は、三人称で描かれる「アンジェリーナ」の世界に、突然「お前」と呼ぶ声が現れたりする揺れによってもたらされている。それはまるで『テレーズ・デスケルゥ』に「お前」と呼びかける「私」のように、具体―抽象の二つの「愛」の間で揺れているのだ。そして、売れる「愛」は、聞き取りやすく作られているのが普通なのに、「アンジェリーナ」の「愛」は、スピーディーで聞き取れない。
 聞き取れないが、魅惑的な日本語ーー今では多くのアーティストにとってのスタンダード・ナンバーであり、このヴォーカル・スタイルを真似た後続世代があることからも、彼が新たな地平を拓いた存在であることは明らかだろう。
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 さらに興味深いことがある。デビュー・アルバムの「アンジェリーナ」以外の曲では、サビの言葉はほとんど英語であることだ。
 歌論研究に曰く、日本語歌とは、「漢字」による概念と「かな」で表現される日本語の生理的感覚の衝突に、本質を持つ。「歌は人の心を種にして、よろづの言の葉とぞなれりける」と定義する『古今和歌集』の「仮名序」以来、「歌とは何か?」という問題意識は、さまざまに考察が重ねられてきた(藤平/1988)。文芸としてのそれは、それ以前に重んじられた「漢詩(からうた)」に対して、「和歌(やまとうた)」の優位を確立しようとする試みとして始まった。「万葉仮名」という仮名を用いることから日本独自の文字遣いが生まれていくこととも、和歌は密接な関係を持っている。
 日本歌謡の歴史研究から、「和歌」を歌唱する「歌」と同一に扱うことは不適切とする姿勢は退けられる。たしかに、現在の「歌」と「短歌」は大きく異なるだろう。だが、それこそ我々の時代的な偏りに過ぎない。
 山城むつみは、日本語の詩に関して、「かな」が「漢字」の日本人への感性への齟齬を馴致し吸収するのだ、とするような考え方を批判する(山城/1999)。日本の詩は、そのような図式に吸収されきらない何かなのだと。ここに、「文字」と概念の問題が突出してくる。佐野元春の活動が刺激的なのは、この面からも理解され得る。彼の曲にあっては、一音一符の構成を破壊したよく聞き取れない日本語にはさまれて、どこかで聴いたような英語が不安定に突出してくるからだ。それは確かに、山城のいう「何か」を持っているのだ。
 例えば、アルバム『SOMEDAY』では、どの曲でもその核心を担うのは、英語のフレーズだ。「Baby I need your love」(「Sugar Time」)だったり、「Young and Free」(「Happy Man」)だったり、「But it's alright. Yes he's a downtown boy](「Downtown boy」)、「Happy birthday it's for you and me!」(「二人のバースディ」)…。最後に興奮を慰安するべく置かれた「サンチャイルドは僕の友達」にいたるまで、ここに収められた全ての曲が、最重要なフレーズが英語である。しかもそれらはあまりに簡潔なものに過ぎない。初期のビートルズラモーンズに近い。その時、佐野のヴォーカルはいちだんと熱を帯び、跳ね上がる。
 ファースト・アルバム『Back to the Street』から、彼の英語は文法通りに英文をなす英語というよりは、意味不明な叫び。すなわちシニフィエシニフィアンの裂け目に突然浮かびあがる光のようなものだった。それでいて、そこまで日本語で紡がれたキャラクターの心情にリスナーを誘引し、決定的に同化させる役目もしている。言わば、意味より音が先に到達する音なのである。その最高結晶が、「SOMEDAY」だったはずだ。
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 佐野が日本で最も重要なロック・イノベイターとしてミュージシャンたちに大きな影響を与えていったのは、山城むつみが「詩」を論じて言う「漢字、かな、アルファベットに関わらず、文字そのものが外来性(書くことの起源的な違和)がある」(山城/1999 p205)という性格による。佐野の歌っている言葉には、「違和」があるのだ。「聞き取れる」ことを第一条件とする流行歌の世界で、最もノルはずの言葉が、意味を脱しかける。どこかで聴いたような言葉ではあるのだが、よく分からない。しかし、意味像を一瞬置き去りにしたその言葉はすぐに日本語の世界に引き取られる。引き取った日本語像には、「かな」と「漢字」の概念が、箱の中に隙間なく押し込められた数々の風船のように、互いの斥力と引力によって収まっている。ここに一つの隙間もあってはいけない。風船は全て飛び去ってしまう。しかし、そこに何らかの隙間が生まれたら? 小さくても、新しい風船が膨らみ始めたら? 歌われている内容が安定的に構築はされないが、崩壊するほど崩れもしないようにして。佐野の歌の違和は、まさにこの小さな隙間に膨らみ始めた風船であった。それは少しずつ箱全体の布置を変えていったのだ。
 歌うことのこの違和は、山城の言う「書くこと」と違うものではない。歌う言葉もまた、書かれずにいるわけはないからだ。「書く―書かない」は、表現形態の違いではない。反復されることを前提とする言葉の、一度口に出されたり思考されたりするだけで消えて行く言葉に対する特権性の問題なのだ。
 佐野のリリックでは、土着の反理性であり知性以前の感性に応じる「かな」と、概念的区劃存在である「漢字」という二項対立に対して(このような二項対立が安易な図式化であることは山城の指摘する通りであるけれど、一定の明確さを持つのも事実である)、さらに中心をなす、意味が音声に遅れて到来する「英語」という三項目が成立している。それぞれは、それぞれの形でなければ、表現されえなかった。例えば「SOMEDAY」のサビを、「いつか!」と歌うことを思い浮かべてみればいい。また、「街の歌が聞こえてきて」という歌い出しのヴァースは「街」でなければならず、「まち」でも「city」でも何も生み出せなかっただろう。「町」だとしてもだ。さらに、「の」や「が」という格助詞は「かな」でしか表現し得ない。ここに三項の対構造がある――佐野元春のリリックをもって、初めて日本語ロックンロールの言葉は、構造化されたのだ。
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 彼の英語は、「英語」であることすらすでに本質ではない。佐野のリリックに登場する「英語」の多くは、英米のロックンロールや文学などを追憶させるフレーズなのだ。「Vanity Fair」をもじって生み出した「Vanity Factory」や、ビートルズバディ・ホリーを彷彿とさせる「And it makes me down」など、佐野の英語の多くは、なりふりかまわぬ英米文化への追随そのものに見える。だが、追随者として見ても、それが佐野にとって得になっているようには見えなかったことが重要だ。八十年代前半に、サッカレーの小説からインスパイアされたタイトルだと聞いて心ときめかすリスナーが、果たしてどれほどいただろうか。逆に、英文学の愛好者からは、無教養なロック歌手の気障なペダンティズムと差別的に笑われるだけではなかったか。しかし、このような何重もの軽蔑を受けることによって、日本語のロックンロールはついに、「代用品=偽物(サブスティチユート)」としての存在を確立し得たことになる。「本物の偽物」(あるいは「偽物の本物」)となり得たからだ。彼はニセの英語、ニセの日本語を歌う。そのためそれは、特別な「教養」、「歴史感覚」を聴く者に求め、思考させる。よく分からないがひっかかり、どこかで聴いたことのある言葉。それは「教養」という言葉の本当の意味を教えてくれる。何か不確かな構造からの触手が、物質的としか言いようのない現前性を生み出す。
 つまり、佐野元春のリリックは、構造であり、それを変革し続ける力なのだ。浅田彰の最初の著書『構造と力』が、佐野の『SOMEDAY』と相前後して発表されているのは、偶然ではない。また、佐野にやや遅れて立教大学に在籍し、映画における「SUBSTITUE」意識の自覚から創作活動を開始したパロディアス・ユニティ出身の監督たちが前後して映画製作を始めたのも同じ。それらはやはり、コーイヴォリューションなのだ。この時代の共同進化。それを浅田の使う比喩に擬えれば、佐野もまた、聴く者に意味の分からない言葉を歌うことで、円環をなして駆け回る虎がバターになる瞬間を思考していたのだ(浅田/1984 文庫版p67)。
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 佐野元春というアーティストが我々の前に現れた際の新奇とも思えた斬新さは、主に以上のような特徴から生まれていると考えられる。それは、同時代の文化的趨勢と歩を合わせるものであった。
 では、ジャンルとしてのロックンロールの歴史、また同時に日本文化の歴史の中では、彼はどのような個性を持っていると考えられるだろう。

 

   (「2」 に続く)