佐野元春論・大乗ロックンロールの言葉と自由 「2」歴史と例外

佐野元春論・大乗ロックンロールの言葉と自由

Ⅱ 歴史と例外
  ――無類の亀裂であること(八十年代半ば~九十年代前半)

 

 佐野元春は、例外である。彼の存在は、現代の日本文化への転倒なのだ。日本でロックンローラーとして認知されている人物で、「詩人」というアイデンティティを同時に引き受ける人物など、滅多にいない。
 もちろん、ミュージシャンとして、「詩を(も)書く人」としての活動が、佐野だけだったというわけではない。彼を主要なモチーフとして現れた尾崎豊にも、そのような活動があった。社会学者の南田勝也は、尾崎に対して「青くささやきまじめさ」を感じて嘲笑する人々もあったと指摘する(南田/2001。p174)。しかし、尾崎が、生前から「詩人」としての存在を強調したようには見えない。また、現在は作家として活動する辻仁成にも、詩人として活動がある。だが、彼もまた、佐野ほどの継続性を持たなかった。辻も尾崎も、その個人名を超える誘引力を詩作品に持たせなかったのだ。対して佐野は、自らの個性から生まれた「詩」を、自らの支配を超えたところに根付かせようとしている。
 ここには文化の活断層が露呈している。それは、ボブ・ディランを追いかけることでアメリカの生々しい一面が見えるように(湯浅/2013)、日本文化のある側面を浮かび上がらせる。
   ※  ※  ※
 すでに触れたように、佐野元春のリリックにおいて特殊なのは、歌の中の「話者」と登場人物の人称が、曖昧になることだ。例えば、「アンジェリーナ」で「君はバレリーナ」と呼びかけるのは誰なのか。「ガラスのジェネレーション」で「恋をしようぜBaby」と誘うのは誰なのか。「Sugar Time」で「君の瞳に映る tiny rainbow」と歌うのは、誰なのか。『SOMEDAY』までの初期を代表する曲で共通するのは、「君」という二人称のキャラクターを立てるが、対応する「俺」なり「ぼく」なりといった一人称はほとんど表れないことだ。それは「ふっと迷ってしまいそうな時でも 二人でいれば大丈夫だぜ」(「アンジェリーナ」)とか「君の幻を守りたい」(「ガラスのジェネレーション」)とか「そばにそっといるだけで 永遠の恋を感じてる」(「Sugar Time」)というように、鬱(ブルー)に傾く情緒として全体を覆う。
 当時の日本のシンガーソングライターは、その名が作品の全世界を統括するような一人称の個人の存在を立ちあげる人たちだった。井上陽水吉田拓郎は、「陽水の」、「拓郎の」歌として享受されていた。私小説的ともいえる作品と創作者の関係性がそこにあり、三人称的な世界が歌われていたとしても、それはそれぞれのクリエイターの名のイメージに統合される。彼らの詩を見れば明らかに、佐野に比べて、視点のブレがない。メッセージや感慨を歌うにしろ、構造のはっきりしたドラマを作るにしろ、一人称は一人称であり、三人称は三人称ではある。話者は固定された超越性を保つのだ。対して、初期の佐野のリリックは、基本的には三人称のドラマを作りながらも、不安定なまま情緒的な主体がちらつき続ける。 それは、三人称ドラマを得意とするカントリー・フォークと、一人称の情緒的表現を得意とするブルースの両面からの影響を取り入れたものだ。しかし、川崎大助が指摘するように、若者生活への第三者的視線を得意とするチャック・ベリー的なストーリー・テリングの歴史(川崎/2015。p176)を知りながら、佐野はそのような安定的世界を取り入れない。彼は第三者的視点には立ちながら、その場で生じるエモーションを客観的に描きたいとは思っていないのだ。その技術も持ち合わせているのに。それを証明するように、初期作品には彼の視点が安定している曲もある。「情けない週末」、「ドゥ・ホワット・ユー・ライク」(『Back to the Street』)や「彼女」(『Heart Beat』)のような存在感のある名曲。しかし、これらはすべて、ロックンロールではない。これらをもって佐野元春の「アナザー・サイド」とは言えるが、「ベスト」ではない。そこには、佐野のアーティストとしてのアイデンティティにかかわるものがある。それは例えば、そのキャリアのスランプとされる『Time Out!』後の衰弱からの脱出口が、「Sweet16」の「ウオウ ウオウ」というフレーズや間奏部に叫ばれる「イエー!」だった事実が示す。個人の意識に先行する叫びが雷のように突き刺さるこの瞬間こそ、佐野が活力を取り戻した時なのだ。
 このような力を実現しようとする佐野のロックンロールは、一人称的な情感優先や三人称的な物語優先のいずれにも包摂されきらず、その二項対立への揺さぶりをかけることになる。そこで実現しているのは、「自ー他」の安定的な区別がつかなくされた世界であり、超越的なり現世的なりのいずれの自意識にも回収されない感性なのだ。「社会的な自意識」(小林秀雄)などという冗談を言っては困る。どんな自意識だって社会的でしかありえないのだ。大事なのは、眺めつつ眺められるしかない「自意識」の無限のメタ分裂下にあっても、彼には叫ぶことで実現しえる何かがあるということなのだ。 
   ※  ※  ※
 キャリアの初期において「さよならレヴォリューション」(「ガラスのジェネレーション」)と歌った佐野元春。彼の活動は、六十年代からのエコーとして八十年代という一面を生々しく浮かびあがらせる。六十年代は「レヴォリューション」が叫ばれた時代であり、八十年代はそれに明るく「さよなら!」と言った時代だった。その時代相を81年のシングル・レコードで示した佐野は、やはり鋭敏なアーティスト性の持ち主だったと言えよう。それは、七十年代半ばから言われ続けてきた「シラケの時代」に対してはあまりにも元気過ぎ、七十年代後半からニューヨークやロンドンで始まったパンク・ロックに対しては落ち着きすぎた態度である。佐野や伊藤銀次がいくつかの回想で口にしているように、イギリスのパンク・ロック、パブ・ロックの顔役だったニック・ロウのヒット・シングル「恋する二人」をモチーフにしたサウンドで「ガラスのジェネレーション」が作られる。これは実に症候的な事態だと言えよう。それは、パンクのようなわかりやすい「怒り」に直結しないが類縁性はあり、パブ・ロックのようなラフなセクシーさにも直結しないが、類縁性は保っている。原題の「Cruel to be Kind」が示すように、ニック・ロウの曲は、一般的な二項対立を顕在化しつつ混乱させる。そしてその混乱をこそ魅力とするのだ。
 佐野の「ガラスのジェネレーション」も、「さよなら」と言いながら「レヴォリューション」へのこだわりを見せる。また、「君はどうにも変わらない」と歌ったすぐ後に、「悲しいけれど」と付け加える。つまり、この歌に描かれているのは、「レヴォリューション」へのこだわりが抜けきらない存在が、「悲しいけれど」レヴォリューショナリーではない「君」を受け入れる覚悟なのだ。もちろん、この「レヴォリューション」は、左翼活動家が言うような意味での社会変革のことではない。それは、個人のアイデンティティ・クライシスを歌ったものだ。そしてそこには「答えはいつもミステリー」としか言えない「僕=自分」も同じく「レヴォリューショナリー」ではない存在として包摂される。彼は最後に一人称で「つまらない大人にはなりたくない」と叫ぶ。それは、「つまらない大人にはならないで」でも、「つまらない大人になるはずさ」でもない。この自分に対する禁止は、「優しさ」と「残酷さ」を同時に捉える感性にしかありえないのだ。
   ※  ※  ※
レヴォリューション」の一語から、六十年代からの影響を読みとることに関して、偏りを指摘する向きもあるかもしれない。しかし、十代前半の多感な時期を、近代の折り返し地点にあたる六十年代後半に過ごした佐野は、その時代の感性への信頼と憧憬らしきものを表明している。それは強烈な光を放ってすぐに消え去ったビートルズの活動に象徴される日々だ。佐藤良明に拠れば、「スクエア/ヒップ」の二分法が「スクエア」の側の崩壊によって崩れ、「ヒップ」を目指すマインドによる「ポジティブ・フィードバック」が自らを滅ぼしつくしかねないまでに破壊活動を繰り返したあの時代(佐藤/1989)。佐藤は、六七年がこの創造性と破壊性の折り返し地点だとする。それは、学生を中心とした理想社会への希求が、やがて当事者たちの欲望の発露へと矮小化されていく時間だった。かつて丸山真男と論争を交わした吉本隆明。彼は丸山が大学生を「選良」と捉えているためにその時点から過去の存在になるだけだったのに対し、「大衆」としての大学生をイメージしていたために優位に立ったのだと、絓秀実が指摘している(絓/1999 p5)。六十年代末になり、時代は吉本さえ脱ぎ去ろうとしていた。やがて、誰もが信じられる正義は、消費され尽くした。人々は、あらゆる正義を自らの欲望のために使用するようになった。すでに触れた七十年代の「シラケの時代」ぶりは、「正義」が消費されるに過ぎない価値だと人々が感じ取ったことを意味する。日本の大衆文化に一時代を画する五五年、五六年生まれの世代の各ジャンルでの中興の祖ぶりは、この時代を自らの感性で感じ取って生きることができた世代の最下限でありつつ、その変貌、挫折を生々しく感じずに済んだ世代であったことが大きい。彼らは、ただ夢見ながら、自分たちの身の回りで起こっていることをのぞき見た世代だった。
 信じられる正義が蕩尽され尽くし(六十年代)、その挫折をかみしめる表面的なニヒリズム(七十年代)にも飽き、その次にやってきた八十年代は、「さよならレヴォリューション」「君はどうにも変わらない」という思いの中で、いつでもいい「今夜」、どこでもいい「ここ」での「Get Happy」を目指す日々となる。その中で夢中に生きながら、「つまらない大人になりたくない」と、人は叫び続けるしかなかった。
   ※  ※  ※
 では、その時代に始まった佐野元春のキャリアの中で、最も衰えた印象を持つ作品はどれか?――「アルバム」を基本単位として言えば、『TIME OUT!』であろう。「傑作」と謳われた『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』の翌年に発表されたこのアルバムは、今から聞き返せばまるでルー・リードにおける『Coney Island Baby』(1975年)、『Rock and Roll Heart』(1976年)のような、こじんまりした佳作の印象を与える。それ自体は、不出来なものではない。しかし、発表当時のインタビューでは、佐野の発言も自信を失っていた。また、批評家やファンからの評価も芳しくなかった。だが、この二年後の『SWEET16』(1992年)では、ボ・ディドリーを彷彿とさせるビート・ナンバーであるタイトル曲を中心に、一気に生気を取り戻した世界観を見せた。そしてその後、再び意識的な混乱を刻みつけた『The Circle』(1993年)へと繋がっていく。ここには、『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』から『TIME OUT!』の「明―暗」、あるいは「軽―重」の運動が反復されたように見える。とすれば、『TIME OUT!』こそは、『SOMEDAY』以降、常に大きな自己刷新を繰り返してきたその創作活動の中で、例外的な陥没点である。例外であればこそ、衰弱体として、むしろ彼の創作の本質を陰伏的に表しているはずだ。
   ※  ※  ※
『TIME OUT!』について、佐野は、「ホーム・アルバム」と表現する。「『家に帰ろう』が基本的なテーマ」(城山/1999 150頁)だと、発表時に言っている。しかし、佐野の音楽を聴き続け、その発言を追い続けてきた者たちは、この時点で違和感を感じたはずだ――「佐野元春にとって、「ホーム」とはなんなのか?」と。事実、佐野自身、この発言の後で、「ホーム」を「街」と重ねている。永年の精神不調により医療行為を受けていたというブルース・スプリングスティーン(Springsteen/2016)が、『Born in the USA』(1984年)で披露した「故郷回帰」の願望。それを寄せるにふさわしい故郷など、佐野には全くなかった。それは彼自身のプロフィルにある「神田」や「浅草」、「中野」などの固有名の特殊性ゆえではない。「Rock and Roll Night」の「川」は「いつもそこ」にあったし、「いつかどこかで見たことのある」ものでもあり、「傷ついた小鳥のよう」な「彼女」が身を寄せることができた。それはつまり、現実のどの街でもないのだ。佐野の「街」は不特定で可変的な対象であり、ア・プリオリに措定される場所ではない。スプリングスティーンの歌の男が「マイ・ホームタウン」への依存と自己憐憫を露わにするのに対し、佐野の「街」はその反対の偶有性に満ちた場所だったのだ。それは、「鹿児島」を持つ長渕剛や「茅ヶ崎」を持つ桑田佳祐のような同年生まれのアーティストたちとも大きく異なっている。
 佐野元春に「ホーム」はない。ありもしない「ホーム」をめぐる創作こそ、『TIME OUT!』の本質をなしているのだ。中心に位置する概念が、欠如そのものなのである。だからこそ、佐野はここで彼に先行する世代のミュージシャンたちが作り上げた「日本語ロックのステレオ・タイプ」を受け入れることができた。反抗とナンパの世界だ。この二つの焦点を認めれば、『TIME OUT!』はそれを超える多様性を持ち得ない。演奏者としての各ミュージシャンの卓越した技能が顕在化するだけなのだ。
   ※  ※  ※  
 絓秀実は、日本近代詩における萩原朔太郎を、「探偵=犯人」の共存する詩人像の典型として強調する(絓/1990)。「探偵=犯人」の共存とは、口語自由詩へ移行することによって自ら不鮮明とした(殺害した)詩概念(ポエジー)を再び定位することを目指す(探偵する)存在を意味する。絓は、そのような存在として、萩原朔太郎から保田与重郎をイロニーによって繋いでみせる。
 この時、重要なのは、やがて『日本浪漫派』へと接近していく萩原朔太郎が、「郷土望景詩」(1925年)という作品群を持つことだ。中野重治はそこに「憤怒」を見るが、「故郷」への特別な感情に変わりはない(中野/1926)。そこには、萩原の親友である室生犀星の「小景異情」などの影響も推測される。また、まさに「望郷的」な作品群を残した歌人として、石川啄木の名も逸することはできない。朔太郎の「郷土望景詩」が啄木の作品群とも類似するのは、その「望郷性」が、「学校」と「停車場(駅)」に結び付けられているからだ。
 これに対して、「詩」としての佐野元春の言葉は、約四十年に渡って、この二点をほぼ完全に無視している。貨物列車に飛び乗ってアメリカ大陸を横断する「ホーボー」への精神的な親近性を認め続けているにも関わらず、彼の作品では「車」ばかりが用いられる。電車は、ほとんど描かない。さらに、学校に至っては、言葉として用いられることはなく、「99ブルース」(『Cafe Bohemia』収録)の「この国のルール/この街のルール/家庭のルール/教室のルール」というフレーズで用いられる「教室」が唯一の例外と思われるほど、徹底して無視される。
 この欠落は、決して偶然ではない。日本のロックンロールの歴史にあっても、佐野の旧友たる忌野清志郎が(RCサクセション「ぼくの好きな先生」「トランジスタ・ラジオ」など)、浜田省吾が(「あばずれセブンティーン」など)、尾崎豊が(「十五の夜」、「ハイスクール・ロックンロール」など)、それぞれに「学校」を歌った代表作を持っている。フォークまで遡れば、高石友也の「受験生ブルース」などもある。にも関わらず、佐野はこれに同調しない。
 石川啄木萩原朔太郎忌野清志郎高石友也が同じ線上にならぶ。これこそ、日本の近代の「詩情」である。それは、至る所に同じ「学校組織」を産み付けることで共有されたものだ。「学校」とは、誰もの「故郷」であり得る存在だった。しかし、佐野はこれを拒否している。おそらくロック・イノベイターとしての評価の高さに反する佐野の「売れなさ」は、「学校体験」を全く無視していることにも一因があるのだろう。
「故郷(佐野の言い方で言えば「ホーム」)」を想起させる「語」を用いない。それでいて「詩」としての言葉の強さを、日本語で歌う日本人として実現する。その意識的な試行において、佐野は近代日本の「探偵=犯人」の系譜に連なる詩人だと言える。 
   ※  ※  ※
「ホーム(故郷)」に連なるイメージを断ち切ろうとする佐野の活動は、日本の「近代詩」にばかりでなく、アメリカ合衆国生まれの「ロックンロール」にも、彼が正統な血脈を持っていることを告げている。
 黒人のリズム&ブルースを白人の若者が歌い始めた。その最初の一人が一九五○年代中期にデビューしたエルヴィス・プレスリー。彼は瞬く間にビッグ・スターになった。やがて、ハンサムな白人青年という糖衣をはぎ取って、強烈な個性をまとった黒人のロックンローラーたちも現れ、注目を浴びた。白人、黒人の混じった初期型ロックンローラーたち。佐野が初期の名曲「悲しきレイディオ」で歌い上げた「ジーン・ビンセント、チャック・ベリー、リトル・リチャード、バディ・ホリー」などを含んだ人々。彼らの音楽は、ハイスクール・ライフでいかした異性をダンスに誘うのに適した音楽を欲していた高校生たちにはまった。その衝撃は、ミネソタの田舎町の目立たない高校生だったロバート・アレン・ジママン少年(1941年生)が高校の文化祭のようなもので校長を戸惑わせたことからもわかる(湯浅/2013 p8)。彼はピアノを弾き、仲間たちとともに派手にやってみせたらしい。ハイスクール・ライフにちょうどいい盛り上がりを与えてくれるものとして、彼は心底これを楽しんだ。一九五八年頃までのことだ。それから数年後、六十年代という時代に突入した頃、ギター一本抱えて歌い出した彼がボブ・ディランというフォーク・シンガーとして知られていったのは、時代と、ニューヨーク(グリニッジ・ヴィレッジ)という場所の魔法としか言いようがなかった。初期型ロックンローラーたちの歌は、ハイスクールの生徒たちには好まれるけれど、大学生たちにはあまりに幼稚だったのだ。
 五十九年の痛ましい飛行機事後でバディ・ホリーらを失ったロックンロールは、すぐに、甘い歌声でベル・カントに歌い上げるニール・セダカポール・アンカの「ロッカ・バラード」と言われるロマンティックな一群にとって変わられる。ロックン・ロールは、ティーン・エイジャーにとって、シンプルに忙しくなりすぎたのかも知れなかった。この後、ビートルズらが世界中を驚嘆させるまで、ロックン・ロールはなりを潜めたように見える。
 しかし、我々は、チャック・ベリーの「スクール・ロック」に代表される作品群を忘れるべきではない。ロックン・ロールとは、「(ハイ)スクール」と深い関連性を誇るものであることが、この一事からも明らかであるからだ。佐野元春自身が、立教高校の仲間たちとバンドを組み、やがて大学祭を一人で歌って廻ったりした事実もまた、彼の好む音楽(ロックンロール)と「スクール」の親和性を明かしている。
 にも関わらず、「学校」を一顧だにもしない佐野の姿勢。佐野のフォロワーの一人である尾崎豊は、死後四半世紀を過ぎて、「15の夜」や「十七歳の地図」ではなくて、「I LOVE YOU」や「OH MY LITTLE GIRL」などで懐かしまれる。ティーン・エイジャーは、ロックンロールよりもロッカ・バラードを、永続的には好むのかもしれない。そのような時による非・個性化を、佐野は真っ向から拒絶する。佐野と尾崎を隔てるのは、この感性の〈「ホーム」=「学校」〉に繋がるロマンティックなスクール・ライフのイメージの有無なのだ。
 佐野は、この意味からも、ロックンロールの「ホーム」をも拒絶している。
   ※  ※  ※ 
 佐野元春は、「ホーム」を二重に拒否している。日本近代詩とロックンロールの双方の歴史の「ホーム」だ。一つ目に、「故郷」。二つ目に、「学校」。その二者は、佐野の曲では舞台装置としてすら、歌われない。この「ホーム」への拒絶の倫理は、いささか不気味なほどである。何が彼をこうまで促すのか。
 答えはただ一つである。――それがロックンロールだからだ。
 グリール・マーカスはザ・バンドについて、彼らが「故郷」を探す流離い人たちであったことを指摘する(Mercus/1975 翻訳p88)。カナダ人の彼らの故郷。それは「アメリカ合衆国」の音楽だった。柄谷行人が言う文物だけが外国からやってくる日本とは違って人間自体がやってくる「アメリカ」が、ここにある(柄谷/1989)。多くはカナダ人の彼らが宿った「ビッグ・ピンク」という家で奏でられた音楽は、彼らがアメリカを旅し、アメリカで聴き集めた音楽だった。マーカスが言うように、彼らは、他国から来た者として「アメリカ合衆国の音楽」を観念的な全体像として受け止めることが出来た。他のアメリカ人たちが、それぞれに生まれながらのアメリカ人として、アメリカの部分的位相しか見られなかったのに対して。
 佐野元春が、ザ・バンドも拠点を置いたウッドストックでレコーディングしたアルバム(『THE BARN』)を持つことは、その故郷回帰願望の代用品(サブスティチユート)を指し示す事態と言うべきだろう。彼は、ザ・バンドのように、アメリカという観念の音楽を聴いた。そのアメリカは、スプリングスティーンの歌った「U.S.A.」ではなかった。佐野にとっては、アメリカの音楽=ロックンロールは、実在の「ホーム」ではなく、意識的に構成すべきものだったはずだ。要するに、失われた「ホーム」への共感を意識しつつ新たな音楽を作ることこそ、ロックンロールの生命ーーそう佐野は見抜いたのだ。
   ※  ※  ※
 佐野元春のロックンロールとは、自らがよそ者であることを引き受ける存在の志向した観念的「伝統」だった。それは、Wanna-besがOriginalsに対して実際の肉体としては下位に位置しながら、創造の精神性においては上位を占めるというねじれを持つ。この転倒は、ユングが「ヨブ記」の論究で述べる「主(神)」と「奴(人)」の弁証法を思わせる(Jung/1952)。きわめて近代的な自意識を屹立させるのだ。もちろんこれは「SUBSTITUTE」のアイデンティティと容易に同化する。
 ティーン・エイジャーを魅了したロックンロールは、多種のリズム・パターンとともにダンス・ミュージックの一つとして渡来した日本で、他のリズムとは明確な違いを持った。それは、反知性側の音楽という個性が付与されたことだ。アメリカと同じく日本も、「大学生の音楽」としての政治性を湛えたフォーク・ミュージックに対して、異性の気を惹くためのナンパなロックンロールという分化を示した。六十年代のことだ。その後、それぞれが混迷しつつ融合していった七十年代にはっぴいえんどという重要な存在を輩出するなど、大きな変化が起こる。この時、体制ー反体制の対立の中で表面的に反体制側にまわった若者たちに対する違和感。これが、日本語のロックを進化させた。
 フォークは知的であり、ロックは反知的である。フォークの「知」とは何か。それは「メッセージ」と言われる、個人が直接社会に訴えるものだ。この「メッセージ」は、社会に彼らの声が聴かれるのにふさわしいと考える共感性を前提にした精神によって、恥知らずともなり得る自己顕示性を示す。つまり、フォーク・ミュージシャンには、社会の変革なり、自分自身の生活の改変にコミットする積極的な意志があり、これを隠さない。一方、ロックには、多くの場合、異性を誘う単純な誘引力か、思うままにならない生活への反発しかない。「知ー反知」の対は明らかであった。後者に示される世界には、胸を躍らせるような未来は最初から与えられていない。バリケードに使う机や椅子を造る側の若者には、その中や外で叫んだ同年代の大学生が持ったような自分の意志に応じる未来はなかったのだ。日本ロックの最高傑作というべき一曲、RCサクセションの「スローバラード」(1976年)に刻み込まれたのは、「市営グラウンドの駐車場」でデートするしかないカップル。その男の側の「悪い予感」しか感じられない今だ。
 したがって「ロックンロール」側こそが、七十年代以降、知的飛躍を果たしたのは当然だった。「フォーク」の側には「反体制」という「体制」が固着し、「神」の意志を思いながら苦闘する「ヨブ」のような「知性」(Jung/1952)が生まれる余地がなかった。彼らはやがて、「シンガー・ソング・ライター」という、個人のアイデンティティとその音楽を直接に結び付ける存在になっていった。これは、小林秀雄の表現を借りれば、「自意識の球体」の安定と拡張への志向だった。
 一九八十年にデビューした佐野元春も、当初、「自意識の球体」にとじ込もり、その美しさを競う存在となることが期待されていた。伊藤銀次の回想によれば、佐野には「ロックンローラーとしての側面と、シンガー・ソング・ライター的な側面がある」(伊藤/2018)。当時のスタッフたちはそう認識していた。そして、このシンガー・ソング・ライター的な曲は、ガール・フレンドに直接語りかけるようなミディアム・テンポなナンバーかバラードである。当時のスタッフとしてはこちらの方に、ヒット・チャートへの期待をしていたのだろう(アレンジャーに当時売れっ子となり始めていた大村雅朗が起用されていたことからもそれは明らかだ。大村がこのころ、山口百恵の曲のアレンジを通して業界の注目するところとなっていたことは梶田・田淵/2017の年譜に明らかである)。
 しかし、佐野にとってのロックンロールは、このような安定で収まるものではなかった。彼はやはり、「Downtown Boy」に、特に強い思い入れを持つようなミュージシャンなのだ。「たったひとつだけ残された最後のチャンス」にかけながら一晩中「くわえ煙草」で街角に立っている存在を感じてこそ、彼の「歌」が動き始めるのだ。
 このような存在たちと同期する感性を持つミュージシャンでありながら、最高度の文化的な知性をも示すこと。――佐野元春のロックンロールが日本の音楽界にとって「真に」新しかったのは、このような「知性ー反知性」の対立軸を破砕する根源性を持ったことによって、二項対立を終わらせる役目を担ったこと。そして、意識的な批判による風変わりな創造を以て、その歴史性を生々しく照らし出して見せたことにある。それは彼以外の多くの才能たちとともにこの後も拓かれ続けていく、人々の表面的な感性に穿たれた深い裂け目であった。言い換えれば、彼の日本語ロックンロールは本質的な亀裂そのものなのだ。
 佐野元春の歴史に対する例外性はここにあり、彼は今でもそこに居続ける。