星野源「恋」の源流・小沢健二/大江千里(後半)

ふJビート エッセイ987のNo.2

 

星野源「恋」の源流・小沢健二大江千里

 

 技巧的なラブ・ソングの作り手として大きく受容された人物の一人目に、私は小沢健二の名を挙げたい(ここからは、技巧性が露わで意識的に構築されたラブ・ソングは「ラブ・ソング」として表記し、一般的なものと区別する)。
 90年代前半の彼の人気と活躍は、大変に印象的だった。ギターを抱えて「紅白歌合戦」のステージ中央で、加山雄三ら「国民的スター」に囲まれながら「ラブリー」(1994年11月)を歌ったタキシード(?)姿の彼。「渋谷」―「駒場」という小さな地形の中で育まれた先鋭的な音楽キッズが、一人の「歌手」として一般世間の注目を浴びた瞬間だった。
 しかし、この「ラブリー」でさえ、イントロのギターから、カエシのリズムが大きく押し出されている。このころスマッシュ・ヒットを記録した彼の曲の多くは、「カエシ」のリズムを強調し、聴く者の「腰」を持って行く曲だった。トレンディー・ドラマとその主題歌の全盛期、つまり真面目で空想的な「頭」のラブ・ソングが売れに売れていた時代に、「とりあえず恋愛にとびこんじゃえ!」という歌詞を持つ小沢健二の「ラブ・ソング」は、同時代の音楽状況に対する意識的批判という面があった。大きな違和感だったのだ。
渋谷系の王子様」と呼ばれることもあった小沢健二。だが、この「王子様」は王子様らしく、邪悪だった。人々の恋愛に気ままに入り込み奪い取る。そういう曲ばかり歌っていた。それは、大ヒットアルバム『LIFE』(1994年8月)が、スライ・ストーンのパロディであることを全く知らず興味も持たない人々にも、広く受け入れられた。
 批評家の加藤典洋はどこかで、尾崎豊の後継者として小沢健二を挙げていた。一見、全く正反対に見える彼らは、ラブ・ソングを引き受ける自意識の持ち方として、確かに繋がっているようにも見える。尾崎はラブ・ソングを自らの「頭」で真っ向から引き受け、それを生きようとした存在。小沢は、尾崎のような陶酔感を毛嫌いしながら、「腰」周りの問題として受け止めようとした存在。そう捉えれば、この二者は、実は至近距離にある。渋谷(東大)と青山(青山学院高校)が近いように(※)。
 星野源が、「恋」と大上段に振りかぶったタイトルの曲を「軽快なダンス・ソングもどき」として作る姿勢には、小沢健二と等しく、「腰」を動かす力としての「ラブ・ソング」への意識があったはずだ。星野の「営み」を英語に意訳すれば小沢の「LIFE」であり、「君のもとに帰るんだ」は「Life is commin' back!」と意訳することが決して的外れでないことからも、彼らの親和性は明らかだろう。

 



 さらにもう一人、小沢健二からも遡り、星野源の源流となっている存在がいる。今やジャズ・ピアニストとして活動する大江千里だ。彼と星野源の相似については、すでにスージー鈴木も指摘する通りである。
 鼈甲の眼鏡をかけ、大きく口を開けて歌う大江の存在は、80年代の半ばから後半にかけて、頻繁にテレビでも見かけられた。当時はよくあることだったが、ミュージシャンとしてデビューした彼は、一時期、俳優としても活躍していたはずだ。
「十人十色」(1984年11月)のスマッシュ・ヒットから「Glory Days」(1988年6月)、「格好悪いふられかた」(1991年7月)のころまでは、彼をヒットチャートで見かけることが多かった。良家出身の大学生。まさにそんなイメージだった。
 だが、彼にとって三枚目のアルバム『未成年』(1985年3月)のころから、違和感があった。件の「十人十色」も含まれたこのアルバムの中で、彼の歌詞は、ラブ・ソングのものではなかった。
 例えば、「SEXUALITY」という曲。タイトルといい、「奪い合いはいつまで続くの?」と訴える歌詞といい、決して聴く者を心地よくするものではない。デビュー当時から「男ユーミン」とあだ名された、技巧的なコード進行とメロディーも彼の持ち味ではあったが、アルバム『未成年』では、1曲目の「REAL」から、打ち込みも露わなシンプルなロック・サウンドになり、それまでの大江ファンが好んだイメージを捨て去ってしまう。
 後年、大江は、彼の知名度が最も広がった時代にはすでに、ラブ・ソングが書けなくなっていたと告白している。しかし、そもそも技巧的に作り込むアーティストとしての大江の曲は、「Boys and Girls」(1984年3月)の頃からすでに、一般的なラブ・ソングではなく、むしろ「恋愛」というものへの距離感・違和感を歌う「ラブ・ソング」だった。それが、ファンの広がりとともに大江自身の心情とは大きく隔たっていったのだと思われる。
 しかし、大江千里というアーティストが展開して見せた「『恋愛』というもの自体を見つめる技巧性」は、確かに星野源へと引き継がれている。例えば、「恋」を好むファンの多くは、今でも聴けば、「十人十色」を好むことだろう。「泣き顔も 黙る夜も 揺れる笑顔も/いつまでも いつまでも」(「恋」)は、「愛せば愛するほど/臆病な男になるよ/だからクールに微笑んで」(「十人十色」)と同じ言葉なのだ。それらはともに、「恋愛というわけの分からないものを敢えてわけの分からないまま引き受けよう」という決意の表明として、広く支持されたものなのだ。

 以上、星野源の源流として、小沢健二大江千里があることを簡略に述べた。
 しかし、私が星野源という存在に最も共感する部分である「クレージー・キャッツ好き」、そして映画「大冒険」の主題歌を好むという部分には、今回は触れられなかった。
 コミック・バンドであること――それこそまさに、最上の意識的技巧性と広い大衆の支持の共存が求められる。ゆえに、長くなりそうなので、また別の機会に触れてみたい。
            (Jビート エッセイ987 の №2 として)


※ 私は、アメーバ・ブログ(Jビート エッセイ987 ~~藤谷蓮次郎のブログ~~)に「尾崎豊論」を連載している。そちらで、尾崎のこの性格について分析している。ぜひお読みいただきたい。 


                 藤谷蓮次郎 

                   (はてな 20210114)