「4」「5」 杉真理の飛躍・『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』を成立させた確信
Jビート エッセイ987の②
杉真理の飛躍・『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』を成立させた確信
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この一枚で最も明確に届く、杉の言葉(詞)の個性とは何か? ――「過ぎ去っていく(過ぎ去ってしまった)時間」へのオマージュであることだ。
自分にとって最大のアイドルであるジョン・レノンの死。それによって二度と再結成されることのなくなった「ビートルズ」を悼む「Nobody」。「新しい恋」の訪れに追いやられた「思い出」をかみしめる「ガールフレンド」。描けなかった絵と離れた「あの娘」を思う「Love Her」。まさにこれらは、取り返しのつかない時間の経過を実感し、それを胸の痛みとして引き受ける曲なのだ。唯一、夏の「渚」での「夢」を歌っている「夢みる渚」もまた、「短いサヨナラして 天使達 街に帰ってく」と歌われるように、「夢」として過ぎ去ることが前提となった時間が描かれている。
対して、佐野や大瀧の言葉(大瀧の曲の詞は松本隆によるものだが)には、現在時制の性格が強く打ち出されている。もちろん、佐野にも(「Bye Bye C Boy」)、大瀧にも(「白い港」、「Water Color」)、区切られた時間を感受するハート・ブレイク・ソングはある。しかし、この二者の曲はともに、杉の曲よりも直接的ではない。メロディーやサウンドも含んだ全体の印象は、一般的なリスナーを直裁に「失われた恋を思う心」に連れていくものではない。
80年代の日本の「ポップス」という言葉には、「歌謡曲」や「フォーク」、「ロック(ロックンロール)」と違って、都会的で物知りで感情的に余裕を持った、いわば知的な遊び性の強いイメージがあったと、ある社会学者は言う(※3)。そのようなポップスのイメージの中心として、細野晴臣とともに想起される存在こそ、大瀧詠一だった。彼によってメジャー・シーンに送り出された杉真理。彼はしかし、師である大瀧が持たない武器を持っていた。
回想の瞬間としての歌詞=「過ぎ去って行く(過ぎ去ってしまった)瞬間」に捧げるオマージュとしてのリリックだ。
約十年の後、彼は松尾清憲らビートルズ・マニアの四人で作ったユニット「BOX」の二枚目のアルバム『Journey to Your Heart』(1990年)の一曲目であるタイトル曲で、
♪ 遠い雷鳴に何かが起こる気がして
幼い胸高鳴らせた 帰り路
と歌っている。バンド・メンバーの共同制作であるこの歌詞が、杉自身によって書かれたかどうかは分からない。だが、それが杉の意向が大きく働いたものではないかと思われるほど、この時点の杉真理の歌詞「らしさ」を感じさせる言葉だった。核になるのは、「幼い胸」を「高鳴らせた」と歌われているのが「帰り道」であるということだ。彼にとっての「ポップス」は、何かが過ぎてしまったという感情に立脚しながら、しかし同時に、わくわくするような思いを生み出すことなのだ。
80年代の創造力旺盛だった杉の活動を見る限り、何かを思い出させる「回想」が、「新しい何か」を生み出す力となっているという「奇跡」は、たしかに起こっていた。
この「奇跡の一致」は、杉本人の活動の中で、おそらく『Niagara TriangleVol.2』への参加を通して、大瀧詠一、佐野元春という類い稀な個性とともに削り合うことで見出されたものだ。この三人の中で、ポップスという言葉の持つ、懐かしくも悲しく、もう二度と戻れない時を思う切なさが、今日を生きる優しさに反転すること。それこそ、多くのリスナーが欲するものだ。そういった曲の提供者である自分を、彼はこのコラボレーションで発見した。あるいは少なくとも、自覚への方向性を掴んだ。
おそらく、巨大で過剰な才能そのものの存在である大瀧、佐野の二人ともに、杉までもが己の過剰さを打ち出していたら、『Niagara Triangle Vol.2』は、今でも聴かれるような存在にはなっていないだろう。それは、それぞれがバラバラの可能性を見せた総花的な企画アルバムになりかねなかった。ポップスのアルバムとして一つの美しい輪郭を持ち得たのは、杉の四曲。ポピュラリティと一本気さを兼ね備えたしたたかな才能の開花が大きい。
この後、デビューから最初の二枚のアルバムには欠けていた「回想力」としてのポップスの性格が、一際太い柱として、杉の活動に根をはる。それはもちろん、歌詞としてだけではなく、サウンド面でのかつての曲への連想力として据え付けられた。つまり彼は、大瀧詠一の体現した歴史的解釈としてのポップスという表現を、自信をもって自らの活動に引き継いだのだ。杉が大瀧を今でも「師匠」と呼ぶのは、そのような〈伝授〉を自認してのことだろう。
さらにこの〈伝授〉によって、ある面で、彼は「師」の大瀧をも超える足跡をも残した。ここに、日本のポップスが、マニア向けのレッテルを脱することが可能になった。
大衆は、回想を好む。杉と同世代なら、サザン・オールスターズを見よ。彼らが「国民的バンド」と呼ばれるようになった大ヒット曲の数々は、歌詞も曲もともに、先行するものを引き受け、それを再生させるものとしてのポップスではないか。それは、近年では米津玄師の「Lemmon」(2018年)にまで共通する力となっている。
※3 宮台・石原・大塚 『増補 サブカルチャー神話解体』(ちくま文庫 刊)
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杉真理が『Niagara Triangle Vol.2』において果たした飛躍は、まさにこれだった。シンプルに造りあげられた一見地味な曲であるからこそ、リスナーにとって「ポップ」に響いたはず。だからこそ、「失われた時間」が新たな日々を生きる力へと再生するポップスという生命力を、彼は得心したのだろう。
特に、言葉と曲の両面で、そのような本質を明確に表した「ガールフレンド」。この曲がレコード針に拾われた瞬間こそ、大瀧、佐野の強すぎる個性に埋もれず、リスナーとの紐帯としての「ポップス」が届けられた瞬間なのだ。この後、80年代を通してほぼ年に一枚ずつ出し続けたアルバムのほとんどに、はっきりと暗く回想的な曲を入れた杉の確信犯的な姿勢は、ここに発した多様性と紐帯への信頼に拠るはずだ。暗さを排除しない多様性を含んでこそ「ポップス」。彼はそう考えているのだろう。彼の聴いてきた洋楽への〈ノスタルジー〉と憧れもあって。
このアルバムが日本のポップスにとって極上の「ポップス」アルバムであるために、杉真理が最重要な役割を果たしたのだと私が考えるのは、以上のような考察からだ。
最後に繰り返す。――もっと多くの人が、杉の曲を聴くべきなのだ。
藤谷 蓮次郎
(この稿、了)