ノート 折坂悠太さんの「坂道」をめぐって 


折坂悠太さんの「坂道」について ノート

 

 

20210119 

 皆さん、こんばんは。藤谷蓮次郎です。
 昨日、今日と私は、アメブロに折坂悠太さんの「坂道」という曲について書きました。このことについて、少し補足させていただきます。
 
 率直に言うと、この方に関して、私はあまりたくさんを聴いておりません。『平成』というアルバムがある音楽雑誌で高く評価されるなどしたことを、以前ちょっと耳にしたことがあるだけでした。歌声を聴いたのは、現在放送中のドラマ(「監察医 朝顔」)を、家の者が観ており、そのエンディング曲が初めてでした。「声がとても耳に残る人だなあ…」というのが、その時に感じたことです。その後、あの『平成』の折坂さんだと気付いて、アルバムを聴いてみました。
 聴いてみて、その声の個性と、一つ一つの図太いまでに工夫されたサウンド作りには圧倒されました。が、詞は、意外と大人しいなと感じました。世界に対する思春期―青年期の違和感――そう言えばまとまってしまいそうだな、と。もちろん、その違和感は、言葉(日本語)への違和感も含みます。一つ一つの言葉はきっちりと意味を結ぶのではないのですが、そういう宙づり感も含めて、「大人しいな」と感じました。もちろん、私は折坂さんというアーティストの活動のごく一部分に触れたに過ぎませんから、一聴しての私の感想は、的外れなのかもしれません。ゆえに、いま、「知ったかぶり」をしないで私が感じた保守性を書き付けておきたかったのです。それで、前世代と比較できるものとして、「切手のないおくりもの」と「コーラス・ライン」を選んで、「You Are My Sunshine」を軸として並べてみました。
 さて、その結果、読んで下さった方は、どうお感じになられたでしょうか? 折坂さんに対してや、ポップミュージックに対しての私の無知に対する批判があがっても、当然だと思っております。ご批判に任せます。

 ここで二つ、付け加えておきたいことがあります。私の二つの格率です。
 一つ目に、折坂悠太氏は、大変魅力的で、才能豊かな存在であること。単純にしかものを考えない人たちからは「批判」とも取られかねない文章を私が書くのは、あくまでそれに値すると思った人に対してだけです。それが私の二つの格率の一つ目です。今後、折坂さんがどんな曲を書かれるか、どんな活動をなさるか。楽しみに見ていきたいと思っています。
 二つ目の格率に、私の批評は、常に作品論・作家論であること。学者がいいかげんに行うテキスト論や、社会の在り方の分析、哲学、思想は、私にとっては、二次的なものに過ぎません。私は、自分の文章を読んで下さった方に、「この監督の映画を観よう」 とか、「この作者の本を読もう」とか「この曲を聴こう」と突き動かす力になりたいと思っています。故に、どんな批評も、各作者にメリットがあるべきだと考えます(そのため、当然、一つ目の格率は動きません)。今回で言えば、折坂さん、財津和夫さん、野口五郎さんの歌を、読んで下さった方が一人でもお聞きになれば(それも出来れば、彼らに直接のメリットがある形で)、私としては、よかったと思うのです。その結果、「なんだ。この人の批評、全然的外れじゃん」と言われることがあってもいいのだと考えています。

 以上、私の考えを説明させたいただきました。
 折坂悠太さんの言葉と世界観の深まりに期待しています。

 明日は、サザンの「赤い炎の女」についての文章を、アメブロで朝7時半に公開します。
 ぜひお読み下さり、ご批判下さい。

                        藤谷蓮次郎

                        20210119