新しい沢田研二論について。

20210122 夜

皆さん、こんばんは。藤谷蓮次郎です。今夜は、少し遅くなりました。すみません。

 

さて、本日私は、尾崎豊論の第三章をアメブロで公開し始めました。明日も朝早くに続きを公開します。ぜひお読み下さい。

 

また、夕方にアメブロで言わせていただいたような事情がありまして、来週月曜日からの予定だった新しい沢田研二論を、日曜日の昼間からの公開に繰り上げます。ぜひお読みいただき、ご意見を下さい。

その夕方のアメブロでも言ったことですが、私の目指す批評は、現在の大手の出版界(特にここ二十年ほど)では、全く評価されません。文学でも歌でも映画でも芸能でも、まるでその批評を読むと「社会の中で自分が賢くなった」ような錯覚を起こさせるものが優遇されています。つまり、作品や作家に出会うことから考え始めないのです。あるいは、過度に「私」というものを強調して、ただのナルシシズムに陥るものばかりになりました。

けれど、私は思うのです。一つの作品は一つの作品として素晴らしいのだと。だから、それを論じていて、自分が賢くなることはない(もちろん、馬鹿になることもないでしょうが)。ただ、優れた作品の前に自分の文章の読者を引っぱっていければいい。そのエネルギーこそ批評だと。現在、多くの文芸誌・芸術批評誌に載っている文章の多くは、読者を「自分が賢くなった」と感じさせてしまうこと自体で、軽蔑すべき単純な文章です。私が社会学や哲学系の専門家たちの芸術批評を軽視するのも、そういう理由です。この人たちは本来、芸術の個別性は見えないはずですよ。対する文学畑の物書きたちが、どうにもナルシスティックな自我に着地する文章しか書かないのも業腹ですが。

 

私が日曜日から始める沢田研二論は、批評として、一曲に向かいあって書いているつもりです。どうか皆さん、ご批評下さい。

今回は一曲を中心に、沢田研二さんの全体像をイメージする形にしたいと思っています。取りあげるのは、「勝手にしやがれ」です。

 

          藤谷蓮次郎