ノート 尾崎豊論の動機。そして、新しい沢田研二論について。

20210123 夜

 

 みなさん、こんばんは。藤谷蓮次郎です。

 今日私は、アメブロに、尾崎豊論の続きを公開しました。これはまだ続きますが、少し説明させていただきます。

 

 この尾崎豊論は、アメブロ連載開始時に書いたように、五年前の原稿です。その時点では、とある文芸誌に掲載を目指しました。が、かないませんでした。その時は自分の未熟さを感じるとともに、「もっと未熟で読むに値しない文章がたくさん載っているのにな」と、不思議に思ったものでした。今でもそう思っています。

 

 この文章で私が目指したのは、その時点で死後四半世紀近く経っている尾崎豊の存在を、一度しっかり論じてみることです。

 というのも、そのデビュー時から早すぎる死までの間、彼のあまりの変貌ぶりに、ずっとひかかっていたことが、私はあるからです。

 私の尾崎の曲との出会いは、デビューアルバムの発売日でした。彼のデビューアルバム発売直前、たしか中学生になったばかりだった私は、そのころ毎月買っていた音楽雑誌「新譜ジャーナル」(だと思うのですが、記憶がはっきりしません。間違っていたらすいません)で紹介されているのを見て、田舎町のレコード屋さんに発注をかけてもらい、やっとの思いで発売日にLPレコード『十七歳の地図』を手に入れ、すぐに聴き、思った以上のすばらしさにすっかり参ってしまいました。次の『回帰線』も同じように手に入れましたが、たしか先行して発売された12インチシングルの「卒業」には違和感を感じ始め、3枚目の『壊れた扉から』のころにはほとんど興味が持てなくなっていました。にも関わらず、私の思いに反して、みるみるビッグ・ネームに上り詰めた尾崎の姿がありました。私には、あまりにも「分かりやすすぎる」ものになったように感じられましたが。

 その後、薬物の話の後の『街路樹』は聴きましたが、「大丈夫かな、尾崎?」という思いで眺めていました。なんか、「心が疲れてないかな? 全然まとまってないし、『十七歳の地図』の強さはどこいったんだろ?」と、心配やら情けなさやらがこみ上げたものです。

 彼が亡くなった時には、その事実を直視する気にもなれませんでした。

 

 その後、生前「教祖」扱いされた彼は、綺麗な「ラブ・ソング(「I LOVE YOU」とか「OH MY LITTLE GIRL」とか)によって、振り返られることが多くなりました。あるいは、「盗んだバイク」というフレーズに対して、今の十代の人たちはギャグとしか思えなくなっているという凡庸な社会論・世代論とか・・・。

 

 けれど、私は思っています。間違いなく、『十七歳の地図』と『回帰線』は、日本人の誰かが作らなければならなかった傑作だと。そして、そんな素晴らしいアルバムを作りながら不安定な人格で有り続けた尾崎豊は、まさに一時代の「少年―青年」の人生の典型を示した人物だと。

 彼を教祖のように祭り上げたり、表面的なロマンティズムだけで吸収する態度にはうんざりです。だから、誰かがあの時代に生きた才能としての尾崎を掴む必要があると、私は考えました。それで、おこがましくも私が、「聴く」というキー・タームを手に、そこに挑んでみました。敬愛と批判の両面の態度を貫くように心がけて。

 

 いろいろ未熟な瑕疵はありますが、自分では五年経った今でも価値があると思っています。それがプロの編集者の評価を得られなかったのは、縁がなかったということでしょう。まあ、ここ二十年の日本の文芸・芸術・思想誌は、私の喩えでいえば、踊れるユーロビート系(外国語由来の理論を振り回す社会学系)か、閉鎖的マーケットでの演歌系(ヒットが生まれないこと前提で凡庸な「私」を切り売りする系統)の二つが支配的でしたから、80年代的な歌謡曲―ロックのポピュラティと先端性のバランスを重んじる私の「作品―作家」論志向を共有できる骨のある編集者とは出会えなかったわけです。

 

 ただ、私はいま、ネットも含めて、私のような志向を共有出来る方々が増えているのを感じます。二十数年経って、このような尾崎論の可能性を感じていただける方がきっと(少数でも)いらっしゃることに期待します。そして、そういう方々の意見をもらって、さらに様々なアーティストや作品の魅力をみんなで共有していきたいと思っています。

 私の尾崎論。ぜひご意見ください。

 

 さて、明日の十時には、新しい「沢田研二論」の連載を、アメブロで開始します。

 タイトルは、

  沢田研二勝手にしやがれ」試論 ~~男はなぜ、「バーボンのボトルを抱いて」いるのか?

  です。ぜひお読みいただき、ご意見下さい。よろしくお願いします。

         藤谷蓮次郎