沢田研二「勝手にしやがれ」試論の公開について
20210124 夜
皆さん、こんばんは。藤谷蓮次郎です。
今日私は、アメブロで、尾崎豊論の第三章を完結し、新たに沢田研二「勝手にしやがれ」についての文章を公開し始めました。
尾崎論は、今週の週末に、「結」の部分を公開します。それで完結になります。これについては昨日、ついつい力んで語ってしまいましたので、そちらをご覧下さい。
今日から始めた
沢田研二「勝手にしやがれ」試論・男はなぜ、「バーボンのボトルを抱いて」いるのか?
は、少し長くなります。今日は、個人的な思い出話を含んだ導入に終始しましたが、明日からは、今まで書いた沢田研二さんに関するエッセイの中でも、最も論理立てる形になります。とはいえ、「ジュリー」の曲をご存知の方は、決して難しいとは思われないと思います。知らない方でも今から彼の曲を聴いていただければ、十分に理解可能なはずです。昨日も言いましたとおり、「創作・芸術作品に対しては、まずそれに触れて、その感動に忠実に思考する」というのが、私の批評のテーマです。今回もその姿勢を守ったつもりですので、一度公開したら、お読みいただいた方にご意見・ご批判いただければいいと思っています。
明日から、かなり実証立てて(悪く言えば「理屈っぽく」)書きますので、ぜひご批判ください。私としては、そういうやりとりから、沢田研二さんや日本の言葉について、新たな魅力が発見できることが望みです。
なお、私のアメブロ(「Jビート エッセイ987 藤谷蓮次郎のブログ」)には、今まで、沢田研二さんに関する二つのエッセイを公開しています。
沢田研二の矜持・ヴォーカリストからシンガーへの変貌(6つの記事)
沢田研二の歌声・一周回った今、その新鮮さの由来(2つの記事)
の二つです。
この二つと今回の「勝手にしやがれ」試論は、強く影響し合っています。もともとそういう構想があったわけではないのですが、どうやらこの時期の歌手・沢田研二さんの魅力について、私はこのように考えていたようです。今、この三つが揃ったところで私は、自分自身でも驚きながらそのことを感じています。
よければ、こちらの先行する二つと並べて読んでいただきたいと思っています。
藤谷蓮次郎
2021年1月24日