ノート 「勝手にしやがれ」試論の2についてと、沢田研二さんと同い年のあの人の曲
20210125 夜
皆さん、こんばんは。藤谷蓮次郎です。
今日、私は朝の7時半に、アメブロに、沢田研二さんの「勝手にしやがれ」のヴォーカリストとしての彼の歌唱を「音韻」の方面から分析するアプローチの文章を「2」として載せました。
「沢田研二さんの『a音』は決定的に美しい!」
結局私はこれが言いたくて、ここまで3本のエッセイを書いたのかもしれません。皆さん、どう思われたでしょうか?
コメントを公開させていただいた方には大変肯定的に褒めていただいたようで、ありがたく、感謝しています。励みになります。もちろん、批判的なご意見も頂戴したいと思っています。皆さんのご指摘から、自分の考えが深まり、いろんな日本語作品を見直せれば、私としては幸せです。そのために、アメブロとこのブログを続けています。けれど、もっと幸せなことは、私の文章を読んでいただいた方が、「『勝手にしやがれ』を聞き直してみるか!」とか「ジュリーと吉川晃司さんの『すべてはこの夜に』を聞き比べてみようかな」などと思ってくださり、実際にそうしていただくことです。そうすれば、創作・芸術に対する敬意をみんなで持つことができるようになる気がします。社会学や哲学の専門家には、それはないですから。もちろん、彼らの存在意義を否定するものではありませんが、いい加減に、作品を見ない勝手な「賢さ自慢」はやめさせたいのです。まあ、そんなこととは関係なく、素晴らしい作品を作れる素晴らしい人たちの存在を、みんなで喜びましょう!
さて、とはいえ、この「勝手にしやがれ」論は、まだまだ続きます。ここから、沢田研二さんという歌手の魅力の本質へとどんどん進んでいきます。明日以降もご期待下さい。
なお、沢田研二さんと同い年のある方についての短い文章を、明後日の水曜日に載せます。
その方は、泉谷しげるさんです。
泉谷さんの歌手としての魅力に触れてみたいと思っています。ですので、水曜日は、ジュリーの文章を朝に、泉谷さんの文章を昼に公開します。お読みいただき、ご批判ください。
今日も19時には、小説更新です。
藤谷蓮次郎
2021年1月25日