ノート 「勝手にしやがれ」エッセイの完結と長田弘論の動機、そして今後の展開
20210129 夕
本日、私はアメブロで公開しておりました、沢田研二「勝手にしやがれ」についてのエッセイを完結いたしました。「1」から「6」までの6回になります。ぜひ、週末にでも、部分部分だけでなく、まとめて読んでいただいて、またご意見いただければ幸せです。
今の私の思いについては、昨日のこのはてなブログに書きました通りです。
さて、今後なのですが、自分自身が沢田研二さんに関して言いたかったことの核心は、この三作(「沢田研二の矜持」「沢田研二の歌声」「勝手にしやがれ試論」)で言えたように思うのですが、まだまだ他に言いたいことはあります。ジュリーのシングル一曲ずつについてや、アルバム単位の魅力。それから、スタッフのやバンドの方たちの存在感。ライバルとなった歌手の方達への意識など、いろいろ考えてみたいことはあるのです。ですので、今後も二週間に一本くらいは、「Jビート」に短めのエッセイを出していき、2~3ヶ月に一本は、今回のようにがっちりした文章を載せたいと考えています。
ですが、何せ今回の三作、皆さんから戴いた励ましのお言葉に刺激された部分もあって、ちょっと力み過ぎたかなと反省しています(笑)。もっと楽しく、いろいろ遊んだ文章でもよかったのにな、と思っています。私がイメージ・マークにしております「子パンダ」たちのような、無邪気で楽しく人生を遊んでいるような文章を目指したつもりが、息苦しくなってしまいました。もちろん、私がそれだけ沢田研二さんを敬愛し、ついつい力が入ってしまったわけですが。
ですので、次回は(再来週の後半と思っています)、私が力まないで済むような、「これ、好きなんですよね」という一曲を、短い文章で取りあげたいと思っています。
なお、これからも、日曜の朝には、ツイートでジュリー(日曜朝のジュリーと題して)を取りあげ続けます。こちらもよろしくお願いします。
長田弘さんは、私が最も尊敬する詩人の一人です。十分、論理的に高度な概念も使える能力を持ちながら、「詩なんて全然興味ない。分からない」という人たちにも伝わる詩を作る方向へ、かなり早く方針転換されました。また、日本の現代詩人は、ある出版社との関わりがないと認められない部分があるのですが、それ以外の出版社を主な活動場所にされて、それでも長期にわたって活動を続けられたことも、見事だと思っています。惜しくも数年前に亡くなられましたが。
まだ長田さんの詩を読まれたことのない方は、ハルキ文庫に入っている詩集を、一度読んでみてください。前から順番でなく、気になるタイトルの詩を選んで、少しずつ読まれることをオススメします。
さて、来週ですが、「Jビート」はここまで大作を続けましたので、来週は、少し軽く、短く、たくさん発表したいと思っています。一回完結の短い文章を、毎日取りあげる素材を変えて発表します。ですが、それぞれが全くばらけないように、中心に1つのテーマを据えます。
「なぜ、失恋の言葉(作品化)が、人の心に広く受け入れられるのか?」
というテーマです。
現在、取りあげる予定は、
月曜 official髭男dismの曲
火曜 山崎まさよしの曲
水曜 アンジー(水戸華之介)の曲
後半は、後日発表します。
もう少しお待ち下さい。
いま、私のアメブロには様々な文章が載っています。ぜひお読みいただき、ご意見ください。
明日と明後日の朝に、「尾崎豊論」の「結」を発表します。それで、尾崎論も完結です。こちらもぜひ、お読み下さい。
藤谷蓮次郎
二○二一年一月二十九日