ジャーナル 「時の過ぎゆくままに」について

20210224 夜

 今日、私のアメブロは、沢田研二さんの「時の過ぎゆくままに」について書きました。
 昨日も書きましたが、実に難しい歌です。「内容が」ではなく、その魅力を理解しようとするのが。ショーケンさんの「前略おふくろ」と対で取り上げようと思ったのはいいですが、どうアプローチしても、これがジュリー最大のヒット・シングルになった理由として納得がいきません。
 色々考えてはみました。そのメロディーの美しさとか、私がこだわる母音の分析(「♪時の過ぎゆくままに」の「まァまァにィ」というア段音と半音の関係性とかを論じる感じで)なども試みましたが、どれも決め手に欠けるというか、弱いんです。
 それで、改めて阿久悠氏の歌詞を見てみると、この「抽象的に傷ついている感じ」は、なんだろう? と…。この歌詞、どう見ても、過去に大きな傷を持つことを仄めかす男女の自己愛が、かなり大げさに歌われています。私が大学時代、その歴史を頭の中に作ろうと懸命に映画館やビデオ屋をハシゴして見た昭和時代の日本映画のようです。前時代的な大仰さ。しかも、あまり生命力がない。
 この時代にも、このような抽象性がありながら、ぐっとパワフルな曲はあります。例えば、藤圭子さんの「圭子の夢は夜開く」(1970年)。何があったんだか分かりませんが、「♪過去はどんなに暗くても」という歌詞を含むこの曲もまた、「過去の傷」によって成り立っているものである点は、共通しています。けれど、この曲のような力強さは「時の過ぎゆくままに」にはなく、ただ感情に流れているに過ぎません。藤圭子さんのそれを「情念」と言えば、ジュリーのこれは「情緒」なんです。
 そう捉えた時、この抽象的な情緒が広く人びとにアピールした理由が何かあるはずだと考え、結果、やはり「悪魔のようなあいつ」にたどり着きました。そして、それを可能にしたジュリーの退廃的美しさこそ重要だったのではないかと。さらに、大ヒットしたそのような「美」の達成を裏切っていこうとする「チーム・ジュリー」の冷静さと勇敢さに気付いたというわけです。
結果、これは、「ポツンと一曲」となったのではないか。ヒットこそしなかったけれど、「ロンリー・ウルフ」もまた、同じ境遇の歌でしょう。

 さて皆さんは、どう考えられますか?


  藤谷蓮次郎

   二○二一年二月二十四日