私、文学の味方です

昨日、文学雑誌「群像」について書いたところ、少し反響をいただきましたので、また書かせてもらいます。

 

現在、書店で発売中の「群像 2021年12月号」にて、群像新人評論賞が発表されています。

授賞された方々、おめでとうございます。心からお祝い申し上げます。

 

お気づきになった方も見えるかもしれませんが、私も「宮柊二」という歌人を取りあげた文章を応募しましたが、最終候補までにはいたらなかったようです。以前もこのブログに書きましたが、私は今まで、十数回(ひょっとすると二十回以上)、予選だけ通過して、最終選考に至らないという体験をしてきました(最終選考に残り、授賞に至った賞もあるのですが)。反対に、最初から予選すら通らないということはたぶん一度きりです(昨年、同じ賞に応募した「法然・日本浄土教論」のみです)。

ここ数年は特に、各文芸誌にある実質的な年齢制限の存在を実感するようになった(そうでなければ、毎回「予選だけ通過させて審査員には読ませない」という扱いをされることはないでしょう)ので、今回も期待はしていませんでした。

今回の受賞作は昨日発売されたばかりでまだ読んでいませんので、その文章について何か言うつもりはありません。ですが、多くの賞では、受賞作そのものが、私から見るととても単純で不出来、本来学術書を目指すべき内容のものが多く含まれているような気がします。

私が「不出来」というのは、本来、文学批評は

・これとあれなら、これの方がいい

・作者はなんにも考えていないらしいのに、なんか作品は凄いぞ!(逆に、作者はこんなにまで考えているぞ!)

・多くの人は忘れているけれど、この人(この作品)は魅力的だなあ。

というような思いがあって始まるものです。だから、私から見ると(決して作者達が悪いわけではないですよ!)、未だに「漱石」「鷗外」「三島」「武田泰淳」「中上」なんて言っている人たちは、それ自体、批評ではありません。

 だって、彼らについての文章は、溢れているでしょう? 屋上に屋根を重ねるのは楽ですけど、もっと視野を広くもつべきだと考えます。

その対象で人に評価される文章を書ける人は、学校の先生に喩えれば、成績のよい生徒しかみていない先生です。でも、普通の中学や高校では、生徒は一つの教室に40人前後いるんですよ。あなたたちはたぶん、教室でいじめが起こっても止められない人たちです。見てないですもの、生徒一人一人を。

 哲学や社会学の話になれば、なおいっそうです。そこには、頭の良さとも考えられるかもしれない感性の陳腐化があるだけです。

 私が取りあげるのは、だから、今まで「群像」がまとまった文章を載せたことのない人たちについて、というルールを決めていました。もちろん、「群像」のバック・ナンバーを大いに調べてのことです。その上で、扉を開いてやろうと。結果、そのご縁はいただけなかった。出来不出来の問題といわれるかもしれませんが、多くの受賞作を見る限り、一定のレベル以上の出来の文章(おそらく第一次予選で落とされないレベル)なら、欠点があるから落とされるのではなく、落とされるという事実を決めてから、欠点の存在が言われるというのが事実でしょう。

 

 今後、しばらく評論賞は休まれるそうですが、もし復活させるなら、M-1のようなお笑いのコンクールのように、全ての応募作品を最初から客前に公開してみたらどうでしょう。すでにいくつかのネット・サイトでの活動がそうであるように、公開もされないまま審査講評とされる審査委員の思いつきを活字にするのでは、これからのメディア・コミュニケーションには合わないはずです。

 

 私はいい年になりましたし、こうしていくつかのネットで自分の文章を発表することが出来ていますのでいいのですが、視野の狭い編集者に、今後出てくる若者たちがただ傷つけられるのは、見ていてつらいです。

20世紀型の文学の(ちっぽけな)ビジネス・モデルが今、終焉を迎えようとしています。けれど、私は、ひとりぼっちになっても、文学の味方として、教室の隅の人たちに光を当て続けようと思っています。

 

そう思わせてくださったのは、この一年、このブログやアメーバブログで出会った読者の皆さんです。

私の賞は、私の読者の皆さんです。

これからもよろしくお願いします。

さあ、明日も私にとって最高の文学=ジュリーを取りあげます。

 

  藤谷蓮次郎

   2021年11月7日