放浪記の各バージョン

20211106 夜

 

今日も、私のアメブロは、林芙美子論を続けました。

 

なお、今回公開のエッセイでは、「放浪記」についてはほぼ触れていませんが、実はこの作品は、部立てで構成されているとともに、その内容自体が書き直されています。事実関係も、変わっています。私がそこに注目したのは二十世紀末、約四半世紀前ですが、その後、初版本の形を復刊させてくれた出版社もあったりして、嬉しく感じました。まあ、いつも通り、私は早すぎたんだな、と勝手にうぬぼれた次第です。

そう言えば、雑誌「群像」の新人評論賞が終わってしまったようですが、この二十数年のことを考えると仕方ないな、と思います。文学誌と言いながら、文学に対する批評は否定していましたから。私も何度か応募しましたし、芙美子論も送りましたが、掲載にいたりませんでした。それから二十数年、私自身は、文学を軽視する文学雑誌を見ることはなくなっていました。

おそらく、今回の閉鎖は、雑誌という20世紀的ジャンルの終焉を表しているのでしょう。お互いに仕事を回しあう編集者あがりの批評家たちと、彼らにおだてられてその気になっている若者たちの責任は、それほど重くないように思います。

私は、文学は、いま、ネットブログにあると思っています。

いずれにしろ、昔の芙美子論も、いつか公開したいと思います。

 

明日も、林芙美子論の二章は続きます。

noteも公開中です。

 

よろしくお願いします。

「群像」の編集者の皆さん、お疲れさまでした。

 

 藤谷蓮次郎

  2021年11月6日。