萩原健一・「ラストダンスの彼方へ」 (400字詰め約50枚一挙掲載)

(この記事は、アメーバブログ「Jビート・エッセイ987 藤谷蓮次郎のブログ」に発表済みのものです。  藤谷)

 

萩原健一・ラスト・ダンスの彼方へ

     


「俺は女の子になりたい」
 そう思ったことが、人生の中で何度かあったのではないだろうか、ショーケンは。それも、彼のことだから、本気で。思いっきり、本気で。
 彼の歌う「大阪で生まれた女」、「54日間、待ちぼうけ」などの「女歌」を聴いていると、もともと大変に個性的なヴォーカル・スタイルで有名な彼が、いっそう生き生きした表現力を発揮している。そこには、「ミュージシャン三割、役者七割」と自分を定義する彼の持つ「変身願望」が満たされる心の羽ばたきを、私は感じる。
「女への変身願望」。――シンガーとしての彼の表現力が最も羽ばたく瞬間。その最高の一曲が、「ラストダンスは私に」である。


  ♪ あなたの好きな コンサートに行ってらっしゃい
    やさしい微笑みも そのお方にあげなさい
    けれどもあたしがここにいることだけ
    どうぞ忘れないで 
                詞・曲 Doc Pomus/Mort Shuman
                訳詞 岩谷 時子


「けれどもあたしがここにいることだけ」の部分。畳みかけるオ段音をメロディーにあわせてくるくるっと回してみせる(「こォっこにいることォーだけェ」)ショーケンの声! これ以上美しい男声のヴォーカルは、ほとんど思い浮かばない。匹敵するものを強いてあげるなら、ショーケンのライバルとされた沢田研二の「勝手にしやがれ」。その「ああ、あああ…」というア音の連なりくらいだろう。
 この部分でのショーケンのヴォーカルの美しさは、浮気な男を気ままに遊ばせながら、ここにいる私こそあなたにとって特別な存在だと主張して譲らない、女の意地とプライドを堂々と主張する、その色気から来ている。
 しかし、大変な艶福家であり、血の気の多いトラブルメーカーでもあった、言わば明確に「男性」だったショーケンが、なぜこんなに女歌で色気を発揮するのか。
 もともとこの曲は、世界的なスタンダード・ナンバーを、越路吹雪岩谷時子の名コンビが日本語歌にしたそうだ。本来は男性から女性への歌だった。それを岩谷が越路のために、女性から男性への歌に変えたものだという。それから日本では、「ラストダンス」を求める「あたし」が女性、好きな方と踊りに行ったりコンサートに出かけたりする「あなた」は男性。そういう設定で、歌い継がれてきたようだ。たいへんに多くの歌手達がこの歌をカバーして来たらしい。
 しかし、ショーケンの「ラストダンスは私に」は、特別だ。動画サイトに残っている映像などでも、この曲を歌うショーケンは、とびきり生き生きしている。やがて死に至った病を自覚した後で行われたライブが「Last Dance」と題されてさえいる。この曲に直接関係するかどうかは分からないが。
 特別に生き生きと華やいだこの曲を聴いていると、私は、この人は「女」になりたかったのではないか。――私はそう感じてしまうのだ。
 おそらくそこには、萩原健一と名乗りショーケンと呼ばれた萩原敬三という人間が、なんとしても理解したかった女性の姿があったのではないか。「あたし」のためにとっておいてもらう「ラストダンス」を踊る「あたし」が寄り添っていきたい理念としての存在。それが、「あなた」を遊ばせる「あたし」の頭の中にくっきりと浮かんでいたはずだ。
 しかしそれは、絶対に叶わない希求。だからこそ彼は、全身全霊を賭けてそこに向かおうとしているように思える。

「ラストダンスは私に」を歌うショーケン。 
「俺は、女になりたかったんだよな」
 そうなれば、あの人を理解してあげられる部分が増えるから。
 そういうアプローチを繰り返すことが、表現者としての彼に類い稀な色気を与えている。
 
     
 
  二冊の『ショーケン』自伝を読んでいると、不思議な気持ちになって来る(※1)。
 いくら顔立ちとスタイルが綺麗でお洒落だからって、こんなに子供っぽくて情緒不安定で、さらに明らかに良くない仲間たちとの付き合いも感じられる男に多くの女性が口説かれてしまうのは、なぜだろう。
『ドッキリチャンネル』というエッセイ集で、森茉莉は、「ラストダンスは私に」を取り上げている。彼女は、沢田研二とともに萩原健一にも触れ、両者をとても好意的に論評していた。いま、その本が手許にないので二十年以上前の記憶だけで言うが、沢田の自らの美しさに対する「ずぼらさ(たしか森は「ノンシャラン」という語を使っていたはずだ)」と、萩原の「傷だらけの天使」のオープニング映像に打ち出された不貞不貞しさ。その二つを対照的に評していたのか、あるいは別々の文章で取り上げていたかは、今は覚えていない。だが、中でも、萩原のジャズ風アレンジ「ラストダンスは私に」を面白く受けとめていたように思う(※2)。
 萩原のこの曲での振るまいは、実に大袈裟だ。意味があるのかないのか判断しがたい細かい手の動きや、地声やファルセット、ドスを効かせたような低音域からいきなり金切り声に跳ね上がるようなヴォーカル。実にバタバタした落ち着きない印象がある。彼のライバルとされた沢田研二がいつも歌の中のキャラクターになりきるように歌うのに対して、萩原健一は、いつもショーケンその人が歌っていることを感じさせる。歌い出しの声を聴いたり、そのステージでの動きを見たりした途端、「あ、ショーケンだ」と誰にでもすぐに分かってしまうほど。
 このような歌い方しか出来ない歌手を、森茉莉のような「美少年、美男子の目利き」が褒めたのは、私には意外だ。やはり彼には、何か人の心の掴む力があるようだ。
 二つの自伝のうち、先に書かれた『ショーケン』の方で、萩原自身が、晩年の岸田今日子に言われたという言葉を紹介している。


  「昔、学生運動をやっていたという話も聞いたじゃない。だからそのうち、今度は カルト教団みたいな世界に入っちゃうんじゃないかと思って。わたし、あなたのことが  本当に心配だったの」(82頁)

 

「心配」という萩原の人柄の誘引力。彼のパフォーマンスは、ロラン・バルトが『テクストの快楽』で言う、親と散歩中の子供のようだ。全く不規則に、思うがままに、時に兆ののように時にバッタのように親の元を離れては舞い戻ってくる動き。歌の世界観とくっついたり離れたりする彼の動きを見ているうちに、我々は晴れた日の散歩道を行く親のような気分になってくる。ただ、彼を見失わないようにだけ心がけて。
「危なっかしくて、目が離せない」存在として「見られ続ける力」。「ラスト・ダンスは私に」を歌う彼を見る体験は、あのバタバタ、クルクル動く腕や上半身。次々に向きを変え、伸ばしたり曲げたりする下半身。そして、安心して聴かれることを拒むような、情を打ち出し過ぎて情の湿気を失ってしまうヴォーカル。これらによって、ついつい「心配」になってしまい、目が離せなくなる体験だ。だからこそ、彼の歌は「心配」の果てにそこから解き放たれる快感を、聴く者に与える。
 私の言い分が、理解できない、納得いかないという方は、もう一度彼の「ラストダンスは私に」を、音のみでも動画サイトでも、聴いてみるといい。おそらく、その歌が終わる頃に、あなたは微笑んでいるだろう。晩年の岸田今日子のように。
 しかし、岸田の「心配」は、学生運動からカルト教団へというイメージで捉えられている。そこにはどんな意味が込められているのか。

 

(※1)萩原健一には、「ショーケン」と題した自伝が二つある。一つ目が『ショーケン』(2008年)。二冊目が『ショーケン 最終章』(2019年)。ともに講談社から刊行されている。両者ともに彼自身が口述したものを別のライターがまとめたものらしい。
 現時点(二○二一年二月初旬)から考えれば、どちらも彼にとって晩年の著作と呼んでいいだろう。前者はその前の数年間に自ら招いた不祥事に区切りをつけるためであり、後者は、前者の自伝が呼び寄せた出会いがきっかけとなった再婚から、二○一一年の余命宣告を受けた大病を押しての役者・歌手活動が描かれる。結果的に、後者は萩原健一本人が亡くなってからの出版となった。
 この二冊では、後者の初めの方で前者の否定が行われる。「真実を自分が思うとおりに語ったとは言い切れない」ということだ。彼は『ショーケン』の最後の手直しはマネージャー任せにしたことが大きかったと。
 しかし、彼自身がいうほど、大きな違いは感じられない。そもそも、「書かなかったこと」だの「事実と違うこと」など、読者である我々には分からないことだ。読み通して分かるのは、両者で記述されている記憶のうち、重なるところのものはあまり変わっていないように見えるし、後者にしか描かれていないものについては、比較のしようもない(※3)。
萩原健一ショーケン」という魅力について考えたい我々が注意すべきなのは、二つだ。一つ目に、その時々の事情に左右されやすい芸能人の自伝の記述を、社会記録的な事実を単純に信じ込んでしまうこと。二つ目に、一つ目と全く反対に、客観的な事実の証明によってその人物の実像を掴んだなどと錯覚すること。そのどちらも、不適切だと思う。
 今回の文章で、正しいか間違っているかは私の関心の中心にない。正誤は、誰にでも分かることだからだ。もし、誰にでも理解できるような人物なら、私は彼に捧げる文章を書こうとは思わない。私は彼を分かりたいのではない。感じたいのだ。
 私はここで、この二冊の自伝に依拠しながら、萩原健一を感じたい。そこに盛り込まれているはずの様々な語り手側の情報操作を意識した上で、彼以外の他者に大きな迷惑がかかる事実誤認がないようにだけ気をつけて、ショーケンを見つめていく。
(※2)2008年版『ショーケン』(以下、この本を指す場合は、『ショーケン』とし、2019年版『ショーケン 最終章』は『最終章』と記す)では、映画『いつかギラギラする日』の監督である深作欣二に「ラストダンスは私に」の音源使用を求められた萩原が、たった一回、偶然録音したライブ音源しかないような返答をしている。彼はこれを何度も演奏しているはずなのだが、なぜこんな返答をしたのかは、よく分からない。深作の言った音源のクオリティがそのたった一度だけのものだ、という意味なのだろうか。 


(※3) 『ショーケン』の末尾で、彼がアイロンがけのような家事をする自分の姿に嫌悪感を表している場面がある。そこには、明確に性差別的な言葉も書かれている。私は、これに納得がいかない。『最終章』で、それが寂しいと感じていると分かる言葉は書かれているが、悲壮感はあまりなく、むしろ日々の反復を工夫して受け入れているように見える。反復されることなら工夫して我が物にする。それこそ彼の性格のはずだから、この部分は、当時彼が自暴自棄になっていたことを表すのか、男・ショーケンのキャラクターイメージを守ろうとした周囲の作為ではないかと、私は思う。


   
 
 萩原健一の二つの自伝には、それをつなぐ言葉がある。「歩行禅」という言葉。『ショーケン』では本文の末尾に、『最終章』では冒頭に出てくる語だ。
 それは、ほぼ毎日続けられた、横浜・鶴見にあった自宅からの怖いほどの長距離の歩行を指す。「歩いていると、体から余分なものがどんどん削がれていく。消しゴムも使っているうちに丸くなるように、心も角が削られて丸くなっていく、そんな気がした。」(『最終章』19-20頁)と彼は言う。数度のお遍路体験も含め激しいまでの運動を通して、「余分なものがどんどん削がれ/心も角が削られて丸くなっていく」のだと彼は言う。ならば、舞台上の歌手として常に落ち着かずに手足を動かす姿。あれは、彼の心が「丸くな」るための所作だと言うことになる。
 しかし、あれほど落ち着きのない動きをするように見える彼は、異様なまでに同じ「型」の反復にこだわる人物でもあった。例えば、お遍路は彼自身が決めたのではない数え切れない人びとの通った道の反復として行われたものだし、彼の考案による「歩行禅」のコースも、極少数のバリエーションしか持たなかった。
 人びとを「心配」させる、危なっかしい「ショーケン」の根本には、驚嘆するほどの根気で同じような行動を繰り返す人間の姿があるのだ。彼自身の言葉によると、「ラストダンスは私に」はライブ中の偶然のトラブルでやむなく即興でプレイしたものだという(※4)。だから、この曲にはライブ音源しかないのだと、彼は言っている。しかし、この二冊の自伝に見える彼の性格から言うと、それは全く不自然だ。クタクタになるほどリハーサルを重ね、その上で「その時・その場」でしかあり得ない表現を目指すこと。それが、彼の普段の姿勢だったわけだから。この時もバンドのメンバーが嫌がるほどリハーサルを繰り返し、自分のヴォーカルや動きも十分に頭の中で構想していたに違いない。その上で、その事前の構想を覆し、その時に出てしまう動きに賭けるのが、彼のいつものやり方だったずだ。
 彼は絵を描くことを、「絵が出る」と表現している(『ショーケン』202頁)。アーティストの内面から湧き出る創作欲求を肯定しているのだろうが、それはあまりにも近代主体的な価値観による芸術観だ。芸術は一つの形式を生み出す行為であるのだから、内面から湧き出ようと形式そのものとして成立させようと、それは出来たものの価値の高低に関わらない。コンピュータを使った創作活動がどんどん進化している現代では、形式へのアプローチから、見る者・聴く者・読む者という享受者の内面へと攻め上がる芸術・創作が増えてきているはずだが、こうして出来たものの価値が低いとは言い得ない。
 二冊の自伝の中で、彼は俳優としての映像作りに際して、脚本を読むことに対する強い執着を見せる。一方で、役者としての彼を好意的に捉えている同業者たちの回想の中の彼は、やたらとアドリブを入れ、演出家や共演者を困惑させるような独自の即興性を織り込み続けた存在であるのだが。
 つまり、彼は大きな矛盾を抱えた存在なのだ。型への強い執着と、そこからの逸脱を目指す実際の表現。――矛盾するこの二面性こそ、萩原健一という表現者の本質ではないか。

 

(※4) 『ショーケン』266頁から数頁に渡る記述で触れられているが、ショーケンの「ラストダンスは私に」は、確かにライブ音源しか残っていない。そのまま読むと、まるで一度しか演奏していないように見えるが、そうではなくて、スタジオでのレコーディングでは納得いく音作りが出来ない曲だったと、彼は言いたいらしい。ステージでは何度も演奏しているわけだから、彼はこれを「ライブでなければならない曲」、「常にその一度一度ずつしか成立しない曲」と考えていたということだろう。それはなぜか? この文章が終わりを迎える頃までに、私なりの考察を出してみたい。

 

   

 

 その場での一回限りの思いつきに満ちた表現であることと、「型」として周到に経験された繰り返し。萩原健一という表現者の核には、そのような二つの中心がある。
 振り返れば、彼自身が周囲に巻き起こしたトラブル、今でもしかめ面で語られる記憶には、このような公約数がある(もちろん、あくまでも萩原健一の言い分によると、だが)。
 彼が現場の同僚である俳優を注意したり、制作に関わるスタッフに抗議したりするのは、シンガーとしての彼が周囲のミュージシャンが嫌がるほどしつこくリハーサルを繰り返すのと同じ精神による。
 それはつまり、「本番の前に、完全にネタを自分のものにしてくれよ」と言うことだ。それは、「歩行禅」の中で、心が丸くなるまで一心に歩くのと同じ姿勢。彼が叱った俳優たちの幾人かに共通するのは、「型」としての脚本を自分の頭に入れこまず、肉体を自然と動かすところまで至らないまま、現場に出てきていることだ。「台本をめくる音がうるさい」と注意されたスタッフも、同じである。彼の好む(彼が自伝で残した記述を見ると、むしろ「尊敬する」と表現したほうが適切かもしれない)ミュージシャンたちで固めた彼のライブ。ここで、何度も繰り返されるリハーサルもまた、譜面に残せる一般的な「型」を完全に踏まえた上で、それを超えようとする試みだったはずだ。
 芝居においては「リアリティ」を重視すると公言し、口に出すのも憚られるような過剰な負担を周囲に強い、芸能界という特殊な世界の秩序を無視するような生意気な態度を「大物」たちにとることもあった問題児・ショーケン。自分よりも若く、その世界の秩序にあっては弱い立場の者たちに対する配慮はもっとあって然るべきだと思うが、一方で、大物たちにも臆せず「脚本覚えてきてくださいよ」と直接言ったり、「彼らは自分自身に飽きてしまっていた」と言い切る生意気さは、秩序より「型」を重んじ、「型」が内側から破れていく瞬間までを生きて初めて「演じること」と感じていたショーケンとして、当然の誠実さを示しただけのように思われる。それは、演技者として大きな負担を強いられた黒澤明の映画作りを、二冊の自伝を通して、彼が全く批判していないことからも明らかだ。
 彼のこのような節操が、周囲から「生意気」だと思われたことが、歌手・俳優を含めた彼のパフォーマーとしての不幸の来るところではあった。彼ははっきりと「孤独」だった。それはおそらく、彼が唯一の「ライバル」と公言していた沢田研二と同じ「孤独」だった。萩原の死に際して沢田が寄せた言葉に、お互いの「孤独」を思いやる戦友のような両者の繋がりが刻まれている。

 

   

 

 彼ら(沢田研二萩原健一)の共通点は、1960年代の後半、火のついたような大ブームを巻き起こし、数年の大人気のうちにあっという間に活動を終えたGSブームから、そのキャリアを出発したことだ。京都からバンド仲間とともに上京し、あっという間に「スター」となった沢田に対し、埼玉から東京の北の地域の中学に通い、不良少年たちの周辺にいた萩原。彼は、ひょんなことから、ブルース・バンドとしての「ベガーズ(または、「クライング・ベガーズ」)」にボーカリストとして参加する。そこから、スパイダースを率いる田辺昭知のスカウトに靡いたメンバーとともに、「テンプターズ」としてデビュー。沢田と同じように、高校は中退する。
 萩原健一という表現者が問題児だったのは、すでにデビュー時からだった。GSブームに乗っかり、その甘いルックスを打ち出した衣装、そして楽曲。さらには、歌謡界そのものの営業活動。ブルース・バンドとして「乞食達(あるいは「泣き叫ぶ乞食たち」)」という英語名を名乗っていた彼らが、可愛らしいアイドルとして売り出されてしまった。萩原はそれが気に入らず、デビュー曲では、ヴォーカリストなのにヴォーカルを取っていない。歌っていないのだ。
「ブルースだったんじゃねえのかよ!」という彼の主張。お人形じみた扱いを受けるテンプターズ時代の自分に対する嫌悪感を、彼は全く隠さない。幾つかの曲(「エメラルドの伝説」、「神様お願い」など)については、晩年のライブで歌唱するほど前向きに考えている。だが、やがて自らマスコミにリークしてテンプターズを解散に追い込むほどの嫌悪感を、若い頃の彼は持っていた。
 そこにはまず、「型」そのものに自足する存在への嫌悪感がある。アイドルとは、どういう存在か? 多くの人が好む「型」を、過不足なく実現する存在である。それは、かっこよかったり、可愛かったり、綺麗だったり、明るかったり、清潔だったり、爽やかだったりする。つまり、人びとの幻想の最大公約数である。
 ところが、「かっこいい」ブルースミュージシャンに憧れてステージに立っていたショーケンは、ロバート・ジョンスンからマディ・ウォーターズ、B.B.キング、オーティス・レディングたちに至る、ブルース~ソウルの流れに自分を位置づけたかった(※5)。そこには、ロクな暮らしが出来ない、ロクでもない奴らの生活が歌われている。もちろんそれらの歌にも、かっこよかったり、可愛かったり、ロマンチックだったりする思いが肯定的に込められている。だがしかし、かっこよくも可愛くも、爽やかでもなく、自らのロマンチックな思いに手ひどく裏切られる現実の暮らしがある。そして、そんな複雑な思いを声を出して歌うことで、支えられる魂がある。言い換えれば、「型」(かっこいい、可愛い、綺麗、ロマンチック…)の感性からあふれ出た思いもそのまま入れ込んでしまう世界。それこそが本当にカッコいいのだと、ショーケンは感じていたはずだ。もちろん、このような生々しい複眼視は、アイドルファンたちに好まれない。当初、ジュリーと相称されたショーケンが、いち早くアイドルとしての自分を捨てたのは当然だった。
 しかし、一方で、「型」を重んじ、尊重する性格も彼にはある。周囲のスタッフとの協議のすえ、ファンを驚かす新しいキャラクターを、「アイドル=偶像」として演じ切る沢田研二に対する強いリスペクトを持っていたのも、本心であろう。ただし、彼の「沢田はバンドマンとしてヴォーカルストではなく、バンドは自らのバックを務める存在と考えていた」というような判断は、私は違うと思う。沢田もまた、萩原と同じく、バンドのヴォーカリストとして自分を捉えていたはずだ。彼が一人の歌手として自らを捉えたステージをするようになったのはずっと後年になってからであるはずだ(※6)

 

 ※5 私はこのようなブルース~ソウルの受容について、萩原と同世代の忌野清志郎との、大きく強い共通性を感じる。この二人の類似については、ぜひ別の考察を持ちたいが、二○二一年二月現在、私のブログ(「Jビート エッセイ987  ~藤谷蓮次郎のブログ~~」)で忌野清志郎論を週末ごとに連載中である。清志郎と萩原の共通性については触れていないが、清志郎理解のため、そしてショーケン理解のため、ぜひ参照されたい。 
 ※6 ※5と同じく私のブログの「沢田研二の矜持~~ヴォーカリストからシンガーへの変貌~~」を参照されたい。

 

     

 
    
「型」で人びとを集合させ、その努力を集約した上で、その向こう側に達しようとする。女の子の心を奪うアイドルバンド・テンプターズのヴォーカルから始まって、泣き虫でケンカも弱い「太陽にほえろ!」のマカロニ、チンピラ青年の純情な強がりに満ちた「傷だらけの天使」の修、不器用だが木訥で周囲の人に可愛がられる「前略おふくろ様」のサブ。これらの当たり役でテレビドラマを席巻した後、スキャンダルと映画の時代へと移動していったショーケンのキャリア。やがて彼は死病を得て、さらにいっそう役者としても歌手としても眩しい輝きを放ったように見える。だが、この道程の全てを通して、彼は「型」による集合と、そこから抜け出す即興性の両立を目指した。他者とのやりとりでは「型」を押しつけるように見えるのに、いざ本番となれば、本人はそこから離れようとする。芝居も、歌唱もだ。これが周囲の人にとっては、たいへんな自己中心性でありワガママの発露としか思えないのは当然だった。
 なぜ彼は、「型」にこだわったのか。自伝に触れられている彼の日常生活が、その理由を明かしている。
「歩行禅」といい、日々長距離を歩行する彼だが、それと同じく、日々、経を唱えていたという。母親が亡くなった時にも、一心不乱に「お経」を唱えていた。二度完歩した四国八十八カ所お遍路道も、歩き、寺に至り、経を唱える行であることは言うまでもない。そして、この経を唱える行為は、決まった文句を諳んじた上で、その度ごとに「初めて出会ったかのごとく」「この一回限り」の心で行うものだ。経の文句自体が頭に入り込んでいるからこそ、何らかの揺らぎを持てば、特別なその瞬間として刻印される。彼にとっては、それこそまさに、「その時」としての芸術・創作行為だったはずだ。
 悪評の多くは、彼のそのような志向を理解できなかったがために言われたものだろう。しかし、そうであっても、周囲を責めることは出来ないだろう。というのは、彼自身、当の萩原健一氏自身が、そのような周囲とのズレを理解できておらず、言葉にしてその隔たりを埋めようとしたこともなかったように見えるから。
 それはまた、彼自身の表現者としての出自に由来する問題だった。元来、不良の集まるパーティーで演奏するブルース・バンド「クライング・ベガーズ」のヴォーカルとして出発した彼。そして、一時期は映画監督を目指しながら、役者としての仕事にのめり込んだ彼。二つとも、出発点にあっては、それぞれのジャンルの人たちがこなす技術のレッスンを受けていない。
 当時の映画界であれば映画会社や劇団、あるいは芸能プロダクションが施す役者としての基礎的教育。音楽界であれば、ボーカリストとしての音楽的基礎訓練。体系化したそれらを経験しなかった彼が求める「型」は、新鮮で個性的に輝きもするが、それぞれの道で正統な訓練を得た玄人筋から見ると、素人の思いつきであり、邪道に見えたはずだ。
 落語の世界では、「型の三遊亭、心の柳家」と言う言葉がある。三遊亭を名乗る一門は、基礎訓練から徹底的に「型」を重んじる(お婆さんの姿なら、首を少し前に出して、着物の襟を後ろに下げて・・・というような姿形の模写を基礎訓練とする)のに対し、「柳家」を名乗る一門は、そのキャラクターの了見(=心、考え方、感情)を重んじる(「狸を演じるときは、狸の了見になんな!」)。「型」から始めてやがてそれを超え、その瞬間だけの感興に至ろうとする萩原健一は、本質的には「柳家」系統の表現者だろう。しかし、落語では、「心の柳家」の方が落語の中での動きは地味で、小さく、手堅くなる。「型の三遊亭」の方が、押し出しが強く、大きく動く。つまり、「心」と直結する身体所作は、そんなに目立つものにならないはずなのだ。ゆえに、アドリブが入れば入るほどイマジネーションを刺激する大きな動きを加える萩原健一のパフォーマンスは、その世界の同業者にとっては、やはり邪道と呼ぶべきものだったのかもしれない。
 萩原健一がこのような独自性を帯びた存在となったのは、彼自身の直感だけを頼りにするしかない、芸の系統のない出自だったからだろう。
 たぶん、彼は表現者として、ひどく「孤独」だったことだろう。

 

   

 

 基本のない、我流の「型」作りとその超越。――萩原健一ショーケン以外の表現者であれば、決して認められることもなかった試み。絶え間ない身辺の騒がしさと、一緒に製作にあたる仲間たちの少なくない戸惑いや嫌悪にも関わらず、多くの人の目に届くところとなったのは、彼にとって不本意な活動だった「テンプターズ」の時代から彼を求め続けたファンたちの存在による。そしてそれは、岸田今日子が言うように、「心配」の視線でもあった。歌う時の、あの落ち着きなく終始動き回る手足。ドラマや映画で演技する際の、観る者を裏切る意外なイマジネーションの広がり。それを視聴するファンは、そこに込められた「心」の不定型な揺れに付き合うことを強いられる。
 なぜ彼は、それほどまでに人に心配をかけることが出来たのか。つまり、彼の観客たちは、彼の何にそれほどまでに惹かれていたのか。
 マカロニ刑事の殉職シーンで、彼は自らの意思で「かあちゃん、あついな」と言って倒れている。また、映画「龍馬を斬った男」で彼の演じる佐々木只三郎が動揺するのは、彼が斬った賊の少年が「母ちゃーん」と叫んで絶命した時だ。「前略、おふくろ様」は言うまでもなく、萩原健一が役者として演じる者たちは、みな「母を恋う」純真さを隠さない。
 晩年に書かれた二つの自伝もまた、自らの不始末が裁かれる裁判の日の朝に亡くなった母堂・文さんへの思いが全体を覆っている(そもそも、一冊の『ショーケン』は、文さんに捧げられている)。
 夫を戦争で亡くしながらも魚屋を営み、兄や姉たちと父親の違う敬三(芸名「健一」)を含めた五人の子を女手一つで育て上げた萩原文さんの存在。彼女に対しては、萩原敬三=健一=ショーケンは、絶対に批判的な視線を送らない。大人になるに従って、経済的に逼迫した大人の女性としての彼女の行い、そしてそれが自分の出生に関わることだったとしても、彼に動揺はない。つまり、それほど強く、彼の心は、彼女と結びついていたのだ。 ショーケンは艶福家であり、派手な女性遍歴を唱われた人物。しかし、逆に言えば、最後に彼を看取った夫人と結ばれるまで、どんな女性との関係も長くは続かなかったのだ。母親である文さんへ、幽明を隔てた関わりとなっても変わらない関係性に対して、多くの女性とは、大人の男性としては決して長いとは言えない期間でその関係が切れている。
 彼自身が最後の自伝に書いているところに拠れば、一冊目の自伝の後に製作・放送された「ショーケンという孤独」というドキュメンタリー番組で、旧知の仲である蜷川幸雄が、「ショーケンはそれまでの映画スターたちのように、ぶれずに好きだよと言えない」という意味のことを言ったそうだ。
 彼はなぜ、まっすぐに「好きだ」と言えないのか? それは、彼は自分自身の中に決定的な弱さを見てしまったからだ。そして、他の人の中にも、「型」通りではない弱さを見、その中に「リアリティ」を感じていたからだ。
「そんなに特別に強い奴なんていないよ」
 彼はそう言いながら、多くの人びとを演じてきた。それまでの映画スターたちが全く触れなかった「弱さ」という武器を手に、彼は「型」を崩しにいったのだ。それは、日本の役者や表現者たちの歴史にあって、実に大きな飛躍だった。
 彼が「弱さ」を武器に飛躍し得たのは、その「弱さ」にもたじろがず彼を見守り続けた存在、すなわち、母親の存在があったからだろう。言い換えれば、それまでの男性映画スターたちに、母親はいなかった。美しく、高貴な、いわば特別な女性しか、彼らの背後には想像し得ない。対して、ショーケンには、こんなにダメな俺をどうして大変な苦労して大事に育ててくれたんだ? と何度何度も、生涯を通して問い掛けざるを得ない存在としての、不良息子を育て上げた圧倒的な苦労人としての母親の存在がある。
 ショーケンという表現者の魅力の核心は、まさにそこにあると私は考える。どうしようもなくダメな息子として母の心に至ろうとする、その求愛の色気。沢田研二が、真面目な大人の男性として尊敬する父親の存在に至ろうとする男性的な色気の持ち主であるのに対して、萩原健一は、いつまでも母親へ全幅の信頼を置いたまま〈男性〉としての行動を続ける、少年的な色気を発散する存在だというべきだろう。彼の派手な女性遍歴は、多くの女性に「母のような絶対的受け入れ」を求めた故のことではなかったか。

 

     

 

 この文章の初め(「序」)で、私は彼の歌う女歌の色気の由来を問うた。いま、ここで、一応の結論を得られるだろう。「ラストダンスは私に」を歌う彼がイメージしていた「あたし」とは、彼の「母」、広く言えば「母的な存在」のことだろう。だからこそ、「あなたの好きなコンサートに行ってらっしゃい」と送り出すことが出来、加えて「いつでもあたしがここにいることだけ どうぞ忘れないで」とすごんで見せることができるのだ。母と不肖の息子の絶対的な合一感があるからだ。
 この曲を歌う際の彼のはしゃいだ様子は、母を演じることが出来る息子の心の弾みを表しているのだろう。リアリティを重視する彼。「型」を重んじ、その乗り越えを企図する彼だからこそ、役者としては母を演じることは出来なかった。男性である彼が女性を演じることは、「型」そのものに留まらざるを得ず、「母」を演じても、「型」そのものとして似てしまう(ことによると、表面的な「型」だけぴったり一致する)だけになるからだ。
 だから、彼は、「ラストダンスは私に」を、楽しげに、「母」の心を想像しながら歌った。それは、母を思って「デイ・ドリーム・ビリーバー」を歌う忌野清志郎と同じように、極端なボーカルスタイルも含めて、強い生命力を放った。自分が母にとって決して望ましい、素晴らしい存在とは言えないと自覚している息子たちにとって、母が自分に与えてくれた愛情こそ謎であり、彼女の心を推測することが、いつまでもその心の中に母を見、母とともに生きることになるからだ。
「ラストダンスは私に」を歌うショーケンの明るさを見よ。彼は心の中で、その亡母・文さんとともに踊っていたに違いないのだ。
 マザコンなどという言葉で簡単にうち捨ててはいけない。萩原健一ショーケンという表現者の色気は、母親その人になりたい、その心をすっかり理解したいという、絶望的に不可能な希求によるものなのだ。
「俺は女だったらよかったのにな」
 そうだったら、せめて母さんの話し相手になってやれたのに。
 不肖の息子達は、そんなことを考えてみたりするものだ。高校生のころの私がそうだった。たぶん、ショーケンや、清志郎さんや大瀧詠一さんもそうじゃないかと、私は想像している。。  
    
            藤谷蓮次郎   二○二一年二月一五日                                 アメーバブログ公開    (二○二一○二○八~○二一五)
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