佐野元春論・サンチャイルドの系譜(合一版)
J=ビート エッセイ987の№1
佐野元春論・サンチャイルドの系譜
~~二○二○から二○二一の「友達」へ~~
序
佐野元春は「ガラスのジェネレーション」であり、「SOMEDAY」だ。それでこの人の魅力の多くは語り尽くせる。――そういう視野から彼を論じる学者(主に社会学者)やジャーナリストが、何人か存在する(※1)。しかし、私ははっきりと断言しておく。――デビュー当時から「単独者」としてリスナーの心を奪った佐野元春。だが、私は今の佐野元春の方が、いっそう過激で、「単独者」として試行に満ちた魅力的な存在であると考える、と。
特に今、多くの人が家の中に籠もる時間が増え、他の人と直接関わることが困難な日々。佐野元春の存在は多くのリスナーにとっての励みとなっていた事実がある。彼のファン・サイトやSNSに置かれた多くのメッセージに、その様子が記録されている。そして、この有事に、いつも通り新曲を配信し続ける佐野元春の姿に、多くのリスナーたちは頼りになる「隣人」を感じているようだ。
私はここで、佐野元春という存在の持つ、持続的な創作の源泉を思考してみたい。それが確かに同時代の誰かの心に関わることになるだろうと確信するからである。
1
二○二○年。未曾有の試練に全ての人が立ち向かっているこの年。佐野元春は、新たな曲をリリースした――「合言葉 Save It For a Sunny Day」(10月配信)。
今、失われたものを嘆くよりも、「夢を節約して」「希望を節約して」この試練の時を耐え抜き、やがて来る新しく穏やかな日射しの日々を共に過ごそう。その日が来ると信じ合おう。――そういう内容の曲だ。
聴く者を励ますメッセージ・ソング。そうには違いない。しかし、ことはそれほど単純ではない。ここに佐野元春に魅了されてきた者には素通りしがたい、二つのフックが仕込まれ、それが佐野の曲をリスナーの心に息づかせる力となっているのだから。
一つ目に、サブ・タイトルにある「Sunny」という語。
これは、Stephen Bishopの「Save It For a Rainy Day」(1977)のパロディであるようだ。報われないだろう恋愛に振り回されている男の心情を歌ったこの曲のタイトルは、「(やがて起こる)不幸・不運に備えなよ」という、この慣用句の通常の意味で用いられている。対して、佐野の新曲は、「幸運な時のために今の失望を節約しよう」と歌っているところが、まさに和歌の〈本歌取り〉(季節を同じにしないとか、恋愛を扱っても全く異なる心情にすべきであるとか、さまざまなマナーがある)のような効果を上げている。なぜ彼は、「Sunny」に変えたのか?
二つ目に、「合言葉」という本題。
この語は、「命令」あるいは「願い」や「祈り」とは違い、平等な関係の者同士での取り交わしを想起させる。この言葉自体が、複数の人間達を並行関係に置き直す力としてあるものだ。
佐野元春という才能の「単独性」は、「命令」に対する反発や、「祈り」や「願い」のような、上下を含む分かりやすい関係性をごく初期に脱ぎ捨て、「反抗」のマナーに基づきやすい「ロック」「ロックンロール」を、世代や社会階層の違いを超越した「合言葉」へと高めようとしたことである。その最も波及した「合言葉」が、「Someday」だった。
これは、アメリカで言えば、白人と黒人が相半ばするアーティストが集まって作った「We Are The World」的な普遍性を志向している。しかし、日本で活動する日本人アーティストである佐野元春は、並行=平等関係を共時的に広げようとすることには、強い含羞と大きな自己矛盾を感じる感性の持ち主である(このブログに載せた論考で、私はこれを彼の「大乗」性とその矛盾、それゆえの繊細さの問題として捉えて論じた(※2))。
この二つのフックに仕込まれた疑問たち。――先行きの見えなさ故に誰もが協力しあわざるを得ない時代に、彼が「合言葉」を交わす相手は、誰なのか? また、それはなぜ、「Sunny Day」として意識されているのか? さらには、なぜそれでリスナーは励まされているのか?
ここから思考を始めよう。
2
佐野元春は、時に、「友達(友だち)」という語で呼び掛ける曲を発表する。
彼の作品の中でこの語が最も初期に出てくる曲を聴いてみよう。
♪ Hello Sun Child
Little Sun Child
目を覚ますまで夢の中
ひとりぼっちのSun Child
(「サンチャイルドは僕の友達」)
アルバム『SOMEDAY』(1982年5月)の最後に置かれた、わずか100秒ほどの短い一曲。囁くような佐野のヴォーカルが、柔らかいストリング・ギターとピアノの伴奏に乗って、「ROCK AND ROLL NIGHT」の壮大なドラマで張り詰めた聴く者の心を安らがせる。
私は初めてこのアルバムを聴いた頃に、「佐野元春は、なぜ、こんな小曲をアルバムの最後にくっつけたのだろう? 『Rock and Roll Night』のピアノのリフレインのままで終わったほうが、大きな余韻が残ったのではなかったのかな?」と思ったものだった。それほどまでに唐突に、「Sun Child」という存在は、このアルバムに現れていたのだ。
「ひとりぼっち」で、「素敵」で「暖かい」「一日の光」を「誰かに奪われてしま」いそうな存在。「目を覚ますまで」「そば」で歌の中の無人称の話者(歌詞の視線の主)に守られていなければならない彼・彼女について、無人称の話者は、「誰にも何も言わせない」と誓っている。
この曲の中には、「俺」や「僕」、「私」と言った、一人称が存在しない。私はそれをここで、「無人称の主体」と呼ぼう。では、この「無人称の主体」、「Sun Child」の「そば」で「誰にも何も言わせない」と言い切っているのは誰なのか? (※3)
一枚のアルバムの最後に置かれていること。他の曲とは全く違う短い曲であること。その二つから、答えは明らかだ。「無人称の主体(話者)」とは、このアルバムの作り手である佐野元春その人に違いない。つまりこれは、大きな幾つものドラマの連なりの果てに、役者や制作者がその人自身として現れる「カーテン・コール」なのだ。
ここに収められた曲を楽しみ、心を躍らせたリスナーたちに、「さあ、公演は終わりですよ(目を覚まして)。皆さん、元気にそれぞれの暮らしに戻って下さい(こんなに素敵な『君の』一日の光が射しているよ)」と佐野自身が呼び掛ける。だからこそ、彼は、この曲を最後に置かなければならなかった。「誰にも何も言わせない」、言い換えれば「僕はいつも君のそばにいるよ」と「約束」を表明したうえで。
つまり、「サンチャイルド」とは、このアルバムを聴いてきたリスナーのことだ。ここに、若く、風変わりな日本語を歌うアーティストと、彼より若いリスナーたちとの関係が築かれた。「サンチャイルドは僕の友達」こそ、佐野元春というアーティストとリスナーの絆が結ばれた曲なのだ。
「Someday」という曲、そしてアルバムの重要さを、今では日本のロックを聴く者の多くが認めている。私自身は、「日本語」で書かれた「詩」としても最重要な存在だと思っている。それにも関わらず、「サンチャイルドは僕の友達」という曲の存在はほぼ無視されていて腹立たしい。この曲の存在が示すものこそ、多くのロック・アーティストと佐野元春を分ける才能の分岐点であるのに。
3
「サンチャイルドは僕の友達」という曲には、佐野元春にしか表現し得ない、二つの重要な「単独性」がある。
その一つが、「友達」に語りかける形になっていることだ。
『SOMEDAY』より前の二作のアルバムでは、若いアーティストのデビュー時に相応しく、ラブ・ソング、あるいはハートブレイク・ソングが多い。ところが、『SOMEDAY』では、おそらくはラブ・ソングであったはずの「Sugar Time」にさえ、男女の関係を大きく超える視線が仕掛けられる。男女間のラブ・ソングとしての印象は薄まってしまう。二曲目の「Happy Man」に至っては、圧倒的にビートの効いたロックンロールで、「仲間」とともに騒ぎまくる若者の視線が歌われていて、「恋愛」は吹き飛ばされている。
仲間――約十五年後の「ヤア! ソウルボーイ」(アルバム『Fruits』1996年7月収録)に至るまで、この語は、心の距離感をなくした密着感、言い換えれば、やや共依存的とも思われる関係性を肯定的に歌う時に使われる。
これに対し、「サンチャイルドは僕の友達」から始まる「友達」という語は、一定の距離感を保って歌われる。「仲間」の密着は、この語にはないのだ。
それが最も明確なのは、「サンチャイルド」と同じ八十年代の「風の中の友達」(1988年8月)だ。
♪ 知らぬ間に家を出て
始めて君を知る
瞳を見せて欲しいのさ
Dear My friend
雨の日にはいつも遠くから
君を呼ぶよ
佐野にとっての「友達」は、「遠く」離れて思う対象である。「仲間」のように軽々と繋がる存在としては描かれない。また、「家を出て/始めて君を知る」とあるように、相手だけでなく、自分自身もまた不安の中にいることが前提となり、お互いに不安を抱えて乗り越えがたい距離を生きる。この二人は、「雨の日にはいつも遠くから」という言葉で、その距離を尊重する姿勢をとる。そして、その「友達」のことを「いつも」思っているという関係性が続く以上、むしろその「距離感」そのものが二人をつなぐ蝶番として機能するのだ。
佐野自身が寄せた「楽曲解説」(再編集アルバムCD 『Moto Singles 1980―1989』付録)では、「内向的な友達」に寄せた歌だと説明されている。確かに、穏やかなで安定的なサウンド、ヴォーカル(佐野らしい高音シャウトは「何もできないけれど/うちあけて/うちあけて欲しい」で少しばかり聴かれるのみだ)の印象と相俟って、「友達」を慮り、尊重しながらも、不用意な一体感を彼は作ろうとしていない。
このような距離感を、自分とリスナーの間に捧げた曲(「サンチャイルドは僕の友達」)に用いた佐野元春。彼は、『SOMEDAY』の時点で柔らかい芽吹きのような感覚に過ぎなかったあの距離感(「友達」)を、NYでの体験を通して深く掘り下げたように見える。確かに、このころ急増していたはずの「サンチャイルド」たちを「仲間」ではなく「友達」という語で呼んだ佐野がとった行動は、彼らから「遠く」離れることだった。
NY滞在の後、八十年代後半に現れる「友達」を歌った曲の数々は、彼の心情の深化を表すようだ。「Shadows Of The Street」(1986年9月)でその死を悼まれる「友達」。「Looking For A Fight」(1986年7月)で別の「街」に暮らしている「長い手紙」をくれた「友達」。80年代後半の佐野の代表曲である「Wild Hearts」(1986年9月)で「いろんな思い」を抱える「友達」。……これらは皆、「仲間」に対する一体感、情緒的な「共感」とは逆に、「理性的」に二者の「距離」の自覚を肯定し、その心情を思いやるところに使われている言葉だ。
佐野元春というロック・アーティストの日本の芸術・芸能に対する「新しさ」と「単独性」の核心は、まさにこの二語(「仲間/友達」)で表された他者への距離感の共存にある(※4)。また、佐野元春が多くの文化人やアーティストたちから尊敬、あるいは畏敬を集めながら、ロック・アーティストとしてヒット・チャートを賑わすことがほとんどなかった理由の一つも、ここにある。日本でヒットチャートに上がってくるタレントの多くが歌うのは、「仲間」や「恋人」への情緒的な一体感だった(※5)。さらに言えば、人間精神の最も単独的な試みであるはずの「文学」、特に現代詩、短歌、俳句といったジャンルは、一九六○年代以降、「仲間意識」に自閉するものへと流れてしまった(※6)。
社会の一部が急速に自閉する時代に、「サンチャイルドは僕の友達」に発し、最も典型的には「風の中の友達」に顕在化する距離感そのものを生きる佐野の感性。それはこの後、どうなっていったのか?
4
甥っ子さんの言葉にインスパイアされて作ったという(※7)「Strange Days」(『Cafe Bohemia』収録。ただし、別バージョンのシングル・リリースはその前に行われた。1986年5月のこと)。このころから、アルバム『SOMEDAY』では「サンチャイルド」としてイメージ化された年少者との関係性、それも一定の距離感を保った関係性(例えば、件の会話にあっても、佐野が立脚するのは少年が放った一言の不思議さへの共感であり、簡単に彼と何かが分かりあえたような強い共感を表明しはしない。だからこそ、「悲しいけれど/俺にはわからない」という歌詞が含まれる)を、彼は年長者として維持する。
年少者に対して一定の距離感を保った関係性の意識。すでに「3」で見たように、それは「友達」という語が頻繁に歌われた八十年代半ば以降、急激な深化を遂げた。
このディケイドの掉尾を飾る傑作『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』(1989年6月)。このアルバムでは、薄い青を基調としたジャケット画で「見守り役」として象徴化されるほどに、「距離をもって見つめる者」が前景化する。もちろんそれは、佐野の敬愛するJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』。その主人公にして語り手であるホールデン・コールフィールド少年が夢見る存在でもある。
この中の「ジュジュ」は、「サンチャイルド」の遺伝子を継ぐ曲である。
♪ ジュジュ ジュジュには何もわからない
世界がこの手をこぼれていくたび 心がちょっと傷むだけさ
ここで歌われる「この手」とは誰の手だろう?
「ジュジュ」を歌の中の主体とするのであれば、「その手」と表現するのが妥当なはずだ。「この手」と歌うのであれば、「別の歌の中の主体の手」の存在があることが言われているに等しい。つまり、ここでまたもや、佐野元春らしい人称の混乱が起こっているのだ。
この歌の中には、「ジュジュ」の他に誰も現れない。「歌の中の主体」あるいは「歌い手(話者)」すら、全く現れないのだ。にも関わらず、歌の中の誰かが「ジュジュ」を見つめ、話しかけ続ける。
答えは一つだ。「ジュジュ」と「語り手(話者)」は、実は同一の存在であるに違いない。いつの日も誰かに見守ってもらえることを信じながら、時に歌の主体が見失ったり、誰にも二度と悲しませたりしないと誓ったりする「ジュジュ」自身が、歌の主体の心の中にいる存在と考えるのが妥当だろう。
小さな子どもたちを客観的に見守りながら、大人が大人として圧倒的な強者である時代は、すでに過ぎた。佐野元春自身が、圧倒的な強者としての「大人」を「つまらない大人」と呼び、そうは「なりたくない!」(「ガラスのジェネレーション」)と否定したはずだ。彼は、「大人」の失墜に貢献したのだ。同時に、彼の叫びが響く頃、日本の社会全体で、「大人像」が変容しつつあった。「大人」という語に含まれているイメージや意味を、現在の感性で解釈してはいけない。それは、一九八十年代の初め、社会がまた凡庸で安定的な大人のイメージを持っていた時代に言われた「大人」という語なのだ。佐野の存在の一部分を引き継ぐフォロワーでもあった尾崎豊が、その「強い時代の大人と反抗する若者」像を最も典型的に表していたはずだ(※8)。
「30歳以上は信用するな」と叫ばれた時代に思春期を過ごした佐野が30歳以上の大人になったとき、自らの感性と存在の分岐に目を凝らし、「ジュジュ」のような〈子供性〉を自らのうちに見つけ出したのだ。私はそう考える。「大人」である歌の主体が、歌う自分自身の中に見つけた〈観念の子供〉が、「ジュジュ」なのだ。それはまるで、ホールデン・コールフィールドが、自らの「成りたい大人」を語っているうちに、「自分がこれまで求め続けてきた大人」について語ってしまうような生成変化なのだ。
5
「サンチャイルド」の後継者である「ジュジュ」は、歌の主体の心の中にいる〈子供性〉として生み出されたものである。
世界のいたる所ではしゃぎ回り、クリスマスともなれば「Mr.サンタクロース」に「バラの輪を作ろう!」(「クリスマス・タイム・イン・ブルー」)と呼び掛けられる「子どもたち(チルドレン)」とは違い、また「いつだれがどこで」と尋ねてくる「子どもたち」(「警告どおり 計画どおり」)とも異なり、「最新マシンを手にする」「子供たち」(「ポップチルドレン」)とすら異なろ。しかし、その全てに共通する原型である、
実在せず彼の心の中の観念として存在する〈子供性〉。――それこそ、「ジュジュ」にいたって実存的なイメージとして、佐野元春の世界に昇華されたものなのだ。「ジュジュ」は「リアルな現実 本気の現実」(1985年5月)の「ウィル」の弟に当たるが、彼よりタフな生命力を付与されている。
それが己の心の中に定置された存在となった以上、その「大人」はもう、「ジュジュ」という永遠の〈子供性〉に近づくことも、離れることもできない。本質的な慧眼を持った心理学者や宗教家たちが言うように、一人の人間にとって、自分の心こそ最大の他者であるのだから。
しかし人は、自らの心を思い通りに方向付け、制御しようとする。だが、その難しさに出会い、打ちのめされる。そしてまた立ち上がり、なんとか折り合いを付けようとして、また打ちのめされる……。そのように永続する「優しくあるための残酷さ」のレッスンを自らに課し続けること。それこそが、多くの「大人」が「大人」であるということなのだ。 佐野と同時代に文学に現れた島田雅彦という作家は、デビュー当時、安定した文化圏で既存のルールに併せて自分自身を整えていく「成熟」に対し、いつまでもそのルールを意識的に無視し造反し続けることで己を「未熟」な存在として保つ「青二才」を、理想として掲げていた。「ヤング・フォーエバー」(『THE BARN』収録 1997年)を掲げる佐野元春もまた、「青二才」であることを肯定的に考えているに違いない。この時、自分の心の中で意のままにならない「子供性=ジュジュ」は、「青二才」の師として、彼を教え導く存在となる。それこそ、その長いキャリアが生きられ続けられる原動力の一つだったはずだ。ずっと見守ってくれる「友達」がいるということなのだから。
意のままにならない自分自身である〈子供性〉。これを佐野元春自身が日本国内に弘めた言葉(萩原健太が指摘する「ストリート」や「ビート」と同じように ※9)を用いて「キッド(KID)」と呼ぼう。「キッド」の反抗的だったり挑発的だったり、甘えるように媚びたりする視線は、「つまらない大人になりたくない」と願ってきた佐野元春と、彼を聴くことを続けたリスナーの心の中に、いつの間にか内面化されたと思われる。佐野元春の歌にある「遠さ」を、聴く者たちも受け入れねばならなかったのだから。
自らを見るこの視線の「遠さ」。これは誰にも超えられないものとして、日々、佐野元春と彼を聴く者たちを突き放すと同時に、生きる力を与える。
ここで一つ、加えて置きたい話がある。「キッド」という語は、自らの自立と誇り高さの正統性を、ある曲との血縁性で証明するのだ。
「ジュジュ」の中のギターの音色で想起される、クリッシー・ハインド擁する英国のバンド・プリテンダーズの曲「キッド(KID)」。彼らの『グレイテスト・ヒッツ』と題したCDのライナー・ノーツに拠れば、母の商業目的の性行動を見つけた「キッド」。彼が母を拒絶し、自立していく姿を母の視線で歌ったこの曲。これこそ、大人に対する純粋な〈子供性〉を帯びた視線を定位した曲である。認める母の視線で歌われているこの曲は、心の中にいる幼い「友達」との距離を肯定する佐野の「ジュジュ」に寄り添い、側面から支え続けているモチーフとなっている。
6
こう考えてきた時、多くの凡庸な社会学者やマス・ジャーナリズムで活動する評論家たちが触れることもできなかった、佐野元春だけがなぜ、80年代から現在までの長い期間、その創作活動を続けられたのか、という問いにはすでに答えたと言っていいだろう。彼は、多くのポピュラー音楽のアーティストたちと違って、その心の中に、決して距離を詰められない他者(〈子供性〉)を抱え、それを「遠くから」見守るという「尊重」の姿勢を崩さなかった。この「キッド」との距離は不安定で、時に嫌気がさすほど身近でありながら、時に見失いかねないほど遠い。抱きしめても「この手」からスルリと抜け落ちる。まるで、「世界」そのもののように。この変幻自在で不安定な距離感を源泉の一つとするゆえに、彼の創作活動は、「仲間」性を強調して現れたアーティストたちが時代と共に古びていくのとは違い、「友達」としての距離感を保ったまま、リスナーとの関係を維持することができたのだ。
7
二○二○年、冬。
「Save It For A Sunny Day」という副題を持つ曲のメイン・タイトルを「合言葉」とする佐野元春は、やはり多くのリスナーとの長い関係性を維持してきたアーティストとしての一貫性を、この難しい日々にあっても揺るがせにしていない。
先に述べた通り、「合言葉」とは、その言葉を通して結び合う、お互いを平等な存在と認めるものだ。もちろんそれは、独り言ではない。言葉を共有する他者を招来する。他者が他者として必要になる。しかしその他者は、時代の分厚い雨雲の下の暗がりのためによく見えず、個別の生を失い、普遍的な他者となってしまう。しかしこの時、佐野元春を聴いてきた者たちにとっては、自らの内なる〈子供性〉=キッドとしてずっと「遠くから」見守ってきた、そして見守られてきた他者が、それぞれの心の中で具体化してくる。彼らはそれぞれに、「友達」としての「キッド」を照らす「距離感」という「Sun」を持っているからだ。
「Sunny Day」という語に含まれる「Sun」。ここには、「サンチャイルド」以来、佐野元春が彼のリスナーたちと共有してきた「Sun」への信頼が、ためらいなく表明されている。あの時、「誰にも何も言わせない」という言葉を耳に響かせて日々の生活を送ってきたリスナーたちは、「The Sun」(2004年7月)というアルバムを持つアーティストがずっと我々に(遠くから)寄り添っていてくれることを、心の太陽に照らされて、いつでも思い出すことが出来る。
では、なぜいま、思うことが、そして思い出すことが、希望となると言えるのか?――「Someday!」を信じることができた我々自身が、すでにいたからだ。
この困難な時。我々の心の中に住む「キッド」や「つまらない大人たち」や「高い所から見守ってくれる人」も苦難に曝されている今。ライブ会場や一人きりのレコードプレーヤーやラジオの前でともに「信じる心いつまでも」と声を張りあげた「友達」の存在を、我々は見てきたではないか。あれから約40年。我々の「友達」意識の中には、「共感」と「距離」が同時に含まれていたはずだ。ごく初期に、「さびしいのは君だけじゃない」という言葉(「さよならベイブ」)に心を振るわせた我々だ。今だって「いつまでもきれいでいてね」という言葉を、ずっと心の中の「キッド」のために思い出し続けることが出来る。だから、この離れた距離を時間に置き換え、次に出会う時まで自らの心を支えることができるはずではないか。
この苦難の時だって、40年より長くなんかないさ。
その力を与えてくれた佐野元春というアーティスト。彼を「太陽」のように眺めながら、我々は「SOMEDAY」という「合言葉」を生きよう。我々それぞれの心の中の「友達」、「サンチャイルド」や「ジュジュ」。わがままで、純粋で、いい加減で、生真面目な彼らとともに。
いつか(サムデイ!)この世界に春が来たら、みんな、街の中やライブ会場で会いましょう!
※1 彼らの多くが、『SOMEDAY』かせいぜい『VISITORS』のころまでの佐野の活動しか視野に入れず、酷いものになるとそれが今の活動を軽視する理由づけに使われてさえいる。彼らは、彼ら自身が佐野と同時に論じることが多い80年代に日本の音楽シーンに現れた多くのアーティストたちの中で、佐野とごく少数の例外だけが40年以上に渡って継続的な活動を続けている事実を、完全に無視してしまう。この事実から思考を始めてこそ、芸術・創作に関する公平な論考であり、価値ある思考であると、私は考える。彼らの文章は、いわば「卒業式のPTA会長の祝辞」のようなものだ。個別の生徒の心には少しの影響も与えない。
※2 このブログに掲載の「佐野元春論・大乗ロックンロールの言葉と自由」を御参照下さい。)
※3 佐野元春の曲に関する人称の重要さについては、※2の私のエッセイに詳しく触れている。また、別のエッセイ「佐野元春のクリスマス・ソング~~口笛とチェリー・パイ~~」も、同じ切り口から思考を展開している。私のアメーバブログに掲載しているので、ぜひ参考にお読みいただきたい。
※4 私はかつてこの二極に渡る振幅を「佐野元春の繊細さ」として論じた。ぜひ、参照されたい(※2と同じエッセイ)
※5 佐野元春がヒット・チャートの上位に上がってこないもう一つの大きな理由は、学校」を歌わないことだろうと私は考えている(※1と同じエッセイ)。
※6 歌壇に対しては、すでに100年以上前、折口信夫(「釈迢空」とも名乗った)という歌人、国文学・民俗学研究者が、これを批判している。詩壇・歌壇・俳壇、すべてにおいて、ここ五十年で状況は悪化していると私は考える。
※7 この曲の発表当時の雑誌記事かテレビかラジオの番組で佐野自身がこのように語っていたように思うのだが、いま、手許に資料が見つからない。もし、私の錯覚なら、お詫びし、読者のご寛恕を願う。ここでは、佐野元春という人物が、自分より遙かに年少の人物に対しても「教え導く」という姿勢を取らず、ともに「不思議がる」という態度になることに、読者の注意を得たいのだ。
※8 現在、私のアメーバブログ(「J・ビート エッセイ987 ~~藤谷蓮次郎のブログ」に連載中の「声への歓待~「尾崎豊/「尾崎豊」」という中編の尾崎豊論で触れています。ぜひ御参照下さい。)
※9 萩原健太『80年代日本のポップス・クロニクル』 ele-king books
藤谷蓮次郎
2021年1月15日
(アメーバブログには、ほぼ1節ずつ分けて、すでに掲載しました。ここには、全章を合一したものを公開します。)