ジュリー「勝手にしやがれ」についてのエッセイ「3」と明日の「4」予告

20210126 夕

 

 みなさん、こんにちは。藤谷蓮次郎です。

 本日、私がアメブロに公開いたしました、沢田研二勝手にしやがれ」についてのエッセイの「3」は、お読みいただけたでしょうか?
 昨日、公開前にご報告いたしました通り、今日の部分は、前半と後半のブリッジ部になります。沢田研二さんのキャリアを私の認識で、時期的に区切っております。この区切りを踏まえていただくと、次の「4」からの展開が生きてきますし、私が今まで書いた「沢田研二の矜持」と「沢田研二の歌声」を改めて読んでいただいた時に、より興味深く感じられると思います。
 「勝手にしやがれ」についてのこの文章は、事前にご報告した通り、この傑作を踏まえて、そこから沢田研二さんという歌手の魅力の本質(もちろん、多様な可能性を持つ彼の個性のうちの一部に過ぎませんが)を、自分なりに理解しようという試みです。そのため、ここからは、歌手としての「沢田研二」の全体像に話が及んでいきます。が、決して難しいということはないと思います。
「「ジュリー」ってなんで魅力的なんだろう?」と考えたことのある方なら、興味深く読んでもらえるのではないでしょうか。もちろん、批判は頂戴しますので、ご意見はください。

 

 明日の「4」について先に予告しておきますと、「君をのせて」「許されない愛」「あなたへの愛」「危険なふたり」といった、沢田研二さんの昭和40年代後半のシングル曲を聴いておいていただくか、私の文章を読まれた後に聞き直していただければ、ありがたいです。どうぞよろしくお願いします。

 

なお、明日の11時には、沢田研二さんと同い年の歌手・泉谷しげるさんの「眠れない夜」についてのエッセイも公開します。こちらもぜひお読み下さい。

          

        藤谷蓮次郎
           二○二一年一月二十六日