ノート RCサクセションのゲンソウ

20210206 夜

 

今朝から私のアメブロで連載を始めた「RCサクセションのゲンソウ~~教室の隅で、無口に座っていた君は、今はどこにでもいて、誰かのためにケッサクなマンガを描く~~」は、二年前、ある文芸誌への掲載を目指して書いた文章ですが、編集者の理解が得られず、掲載されませんでした。内容や文体がどうこうというより、年齢制限にひっかかった(私は文学的には無価値の年齢と判断された)というのが真相のようです。書き手の年齢によって文章の価値が決まるとなれば、編集者の仕事は大いに削減できるわけで、それはそれでけっこうなことです。リルケの「年若い者が詩なんか書いたってダメさ」や、中村光夫という批評家の「文学は老年の事業である」という言葉を、初めて原稿料を貰った十代末のころから自らの信念としてきた私は、一切同意しませんが。編集者の発注にあわせて「一見過激そうな凡庸な保守性」を打ち出した四十代以上の批評家もどきばかりが、これからも増えていくことになるでしょう。

 

 この忌野清志郎さんに捧げる文章は、私なりには、件の文芸誌に載る人びと(プロ?  あれが?)の文章に一切劣らないものと、今でも考えています。ここには、ロックと宗教と教育、芸術思想が重なって出てきます。私は、そのような視野がなければ、一般誌に公開する値打ちのある文章だとは考えませんから。

今日は初日ですので、今回のタイトルに関して、まずは二つ説明をさせて貰います。

一つ目に、「ゲンソウ」を、「「幻想」とも「還相」とも捉えられる」と言っているのは、清志郎さんの得意なダブル・ミーニングを取り入れてのことです。それが彼へのリスペクトと、いまでも彼の存在を日々感じて暮らしている私自身の心情を表すのに、最も適切な語だと考えたからです。「幻想」は説明不要でしょうが、「還相(げんそう)」は、浄土宗、浄土真宗といった仏教宗派の思想にある、深遠な思想を含む語です。一言で説明するのは乱暴なのですが、私はこれを、この世(娑婆)で死した魂が現在生きている人びとのもとに寄り添うイメージとして捉えています。

二つ目に、やけに長いサブタイトルは、私の現在の生業からこの文章を構想したためのものです。やがて出てきますが、私はいま、中等教育の学校教員をしています。その教員生活の中で、教室ではほとんど目立ちませんが、毎日のように一生懸命マンガを描いている生徒さんがいまして、彼らに日野高校清志郎さんの姿を感じたのです。マンガを描いている子は、いつも教室の隅っこにいて、無言のまま「創作活動」に熱中しています。こういう子の中から、将来「キヨシロー」になる人が出てくるかもしれないな。日本中に、そういう子がいるのかもしれないな…。私はそう思ったのです。そういう子は、多く、学校の中では変人扱いされてたりするものです。私自身もそういう存在でしたが。

だから、心ならずも「先生」になってしまった私としては、「こんな素敵な人もいたんだよ!」と紹介したかったんですね。それで、一般誌に掲載を目指しましたが、ご縁がなく果たせなかったのは、いまだに悔しく思っています。

 

 ちなみに、私が文章を送った凡庸な編集者や批評家もどきも、上に上げた二つの言葉には全く反応しませんでした。それより以前に、彼らには、私の文章が「わけがわからない」という理由で掲載を断られたことがあります。一方で、処世術だけが突出した彼らによって葬られた私の文章への「批判」、というより「悪口」だけは掲載されましたので、私は深く失望しました。たぶん、私は彼らに怖がられているようです。彼らに「難しい。わけがわからない。飛躍が多い」と批判されている私は、アメブロ沢田研二さんに関するエッセイを書いている人物で、さほど文体上の隔たりはないはずですが。落とされるのはそういうルールだから仕方がないですが、「訳がわからない」からではなくて、自分たちが脅かされるのが嫌で、そのための年齢差別によるものだとはっきり認めて欲しいものです。

 

 とはいえ、アメブロでは明日もRCサクセション清志郎論が、更新されます。これは週末連載として、二月中続けますので、気長にお楽しみください。特に、現在の高校生や中学生の皆さんが読んでくれると嬉しいです。

 

 そして、来週からは、ショーケンについての連載を始めます。こちらはもう少しお待ち下さい。

 

   藤谷 蓮次郎

    2021年2月6日